素直な私はお好き?
七夕だ。2018年現在、正しくは開国以降、世の中的には7月7日が本番だということは知っているが、やはり日文出身としては旧暦の方が七夕だー!という気持ちが大きい。
だからといって特別何かをするわけではないが、せっかくの恋にまつわる日。どれ、古今集でもめくろうかしら、なんて気になってペラペラとめくることが多い。
七夕を詠った歌は、基本的には秋の部立におさめられる。中学生のときに季語というやつを習うわけだが、七夕はもちろん秋の季語。
中学生とそんな話をすると、なんで?と言われる。
旧暦と新暦というものがあってだな、という話はするが、あまり興味を持ってはくれない。とりあえず、1カ月くらい誤差があるってことよ、とまとめちゃうことがほとんどだ。
話がそれてしまった。
七夕の歌は古今集には10首おさめられている。秋の歌は、上下合わせて144首。そのなかで10首というのは少ないように思うかもしれない。
秋は色味が少しずつ消えていく、どこか物悲しい季節だ。
しかし、当時の人々はその儚さにこそ、情緒を見出したらしい。日本人的思考、というか、私たちは全盛期というものに趣を感じることはない。
当時からの論争の一つに、“春秋優劣論”というものがある。少しずつ生が灯っていく春、生が鳴りを潜めていく秋、どちらがいいの?というやつである。
夏は煌々と輝いて、冬は輪とした静かさがある。
こういう極端なものは好まれない。賑やかすぎても、静かすぎても魅力にはならない。どこかが“足りない”ものがいいのである。
そんなちょっとずつ足りなくなっていく季節、たった一夜だけ愛するヒトと過ごすというのは、やはり特別だ。
秋になって、徐々に夜の時間が長くなっていくのもポイント。やはり、愛する人とは少しでも長い時間を過ごしたいものね。
七夕と言えば、男が逢いに来てくれる日。これは、古くから変わらない。
こうして1000年前の人が信じているものを、私たちが信じているのは面白いと思うし、感動する。
さて、七夕はどのように詠われているのか。
みんなが予想するように、「私に逢いに来て、あなたが来るのを待っているの」というものが多い。
たとえば
173「秋風の吹きにし日より久方の天の河原にたたぬ日はなし」(読み人知らず
【意訳】秋が訪れたあの日から、あなたが逢いに来てくれる日をずっと待っているの。天の川の河原に立って、あなたが来てくれる夜を待っているのよ。
と、まぁこんなふうに素直な気持ちを表している。
平安時代の男など、ご存知の通り飽きたらポイなタイプが多い。
ひとりしか妻をめとらなかった藤原義孝さまや3人の妻を平等に愛したといわれる良岑宗貞(僧正遍照)さまは、イレギュラーすぎる。
大体が若い女や権力に吹かれて、古い妻は離縁も言い渡されず縛り付けられている場合が多い。3年間、一度たりとも文すらももらえなかったら離縁成立という何ともアバウトな制約のため、気まぐれに訪れて離縁までの時間が引き延ばされて……なんていう悲劇も多い。
現代とはシステムが違うので比べてはいけないだろうが、離婚よ!と三行半を女からも言い渡せるってすごく進歩だよなぁとしみじみ感じる。
当時、七夕といえば年中行事をおもんばかる宮中では大きなイベントであった。逢いに来てね、とパートナーの不貞をぐっと飲みこんで、健気に気持ちを伝える女性も多かったことは想像に難くない。
確かに、これを言われたらグッとくる気がする。
お祭りで花畑状態の頭で、片隅に置いていた女からこんなメッセージが届いたら……久しぶりに顔でも見に行くか、なんて気持ちも起こるかもしれない。
でも、私は素直なだけが可愛いとは思わない。そんな私が大好きな歌はこちら。
181「今宵こむ 人にはあはじ 七夕の ひさしきほどに 待ちもこそすれ」(素性法師)
【意訳】七夕だからといって逢いに来る人には顔を見せないわ。だって、今夜は七夕ですもの。織姫のように、ずっと待たされるなんて嫌だから。
私はこれが本当に大好き!!!!
詠んだのが、素性法師、つまり男性が詠んだというのもいい。
当時、ご存知の方も多いと思うが男性が女性になりきって詠う“女歌”が流行していた。自分の技量を試すのにも、性別を超えるというのはうってつけ。私より女心わかってるなぁ、と読んでいて感動するものすらある。
この“逢いたい”の裏返しが、私はたまらなく好きなのだ。
逢いに来てね、なんてありきたりすぎる。ほかの女も、きっと同じような歌を彼に贈っているだろう。だからこその、「逢いに来ないでね。」なのだ。
――七夕だから逢いに来るなんていう男、嫌いよ。
そうはいっても、男の訪れを待っているんだろうなぁと、勝手に妄想が膨らむ。
この歌を、男が受け取ったらどんな気分になるのだろう。
身近な男性(日文出身)にこの話をしたら、「可愛くない女だと思う」と即答された。
「女は素直なほうが可愛いに決まってんだろ。計算しているのがバレバレでもいい。それすらも、愛しく思える。」
なんでよ!と私は憤慨し、大ゲンカだ。やはり、日文と日文は混ぜてはならない。こだわりが強すぎて、最悪の事態を招く。
だってね、こんな歌を贈っても来てくれた男のことを、きっと女はもてなすと思うの。
「なんで来たのよ」なんて憎まれ口をたたきながら、彼の好きなお酒でもてなして、きっとその日は特別な香を焚きしめた単衣を身に着けているはずだわ。
いわゆる“ツンデレ”ってやつだ。
逢いに来ないでね!といっても、やはり来てもらったら嬉しい。来てほしいと思って、ありとあらゆる準備をして、こんなお話をしよう、とか考えを巡らせて……。
そういう気持ちって、やっぱりはちゃめちゃに可愛いと思うのだ。可愛げが有り余ると思うのだ。
普段見えないからこそ、見えた瞬間にどわーっとポイント上がったりしません?
なにが言いたいかというとですねぇ……女の底の底まで覗いてほしいということです。そっと覗いて、ちょっとだけ顔を出している可愛げを見つけてほしい。
それだけで、私たちは素直になれる気がするから。
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(旧暦の)七夕の日に更新できて良かった!
古今集には浪漫と愛がたっぷり詰まっていて、どの歌を読んでいても幸せになれます。
公式サイト「花筐」
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