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“君だけがいればいい世界”のはなし

 『エンジェル、見えない恋人』を観た。公開前から話題だったこの作品、「盲目の少女と透明人間の少年の初恋」を取り扱った作品である。
 あらすじはまさに上に書いた通り。二人がゆっくりと大切に恋を育み、愛を築き上げていく様子が描かれる。

 物語はほとんどエンジェルの主観で進んでいく。カメラはエンジェルの視点で、エンジェルが接している世界の美しさを私たちは知ることができる。
 エンジェルは生まれたときから透明だった。エンジェルの父は透明になることが“得意”な奇術師で、謎の失踪を遂げた。
 置いて行かれた母親は閉ざされた空間で、透明な自分の息子を育て始める。そこには監視がいて、ある時間になると彼女の部屋を確認にくる男性がいる。彼女は透明のエンジェルを、誰にも知られずにこっそりと産み育てていたのだ。
「絶対に話しかけちゃダメよ。ほかの人たちには、あなたを見ることができないの。だから、驚かせてしまう。」
 エンジェルが近くの屋敷で遊んでいる少女を見つけたとき、母は彼にそういった。
 母親の、わが子を傷つけたくない、守りたいという想いから出た言葉だった。エンジェルの存在は、“普通の子”からはあまりにも遠いのである。
 姿を消した愛した人の、大切な子ども。ずっと守っていきたい、自分だけが存在を認めてあげられる……母親の閉鎖された世界で、エンジェルは母親の唯一だった。心の支えで、自分の愛情を惜しみなく注げて、そして自分に愛を返してくれるただ一つの存在だったのだ。
 しかし、その閉鎖された空間で母親は徐々に目が虚ろになっていき、生気も薄れていく。愛する人を失い、姿が見えない男の子を産み育てているなどと誰が信じてくれるだろう。気がふれたと思われてもおかしくないし、むしろその考えが自然である。
 彼女がいたのは精神病院だ。森の近くにひっそりとたたずむ、薄暗く閉ざされた小さな部屋で、彼女は一人で姿の見えない息子を育てていた。
 どれほど惑ったのだろう。自分の子どもの見えない姿に。触れられるけれど、見えない。声だけの、優しい息子の存在を、彼女は何度幻ではないかと疑ったのだろう。そして、そのたびにきっと、激しく自分を責め立てたはずだ。
「私が死んだら、あなたのことは誰が守ってくれるの?」
 彼女はその言葉を残して死んでいった。
 エンジェルは独りぼっちになった。でも、そのことを認めてくれる人はいない。彼は透明人間だからだ。

 反対する母の言葉を破り、エンジェルは外の世界へと踏み出す。透明だから壁抜けできるのでは?とも思ったがそうではないらしく、看護師たちが扉を開けるタイミングを見計らってひっそりと外に出る。
 そして、赤毛の少女・マドレーヌと出会う。彼女は盲目で、独りぼっちだ。そして、人一倍優れている。かくれんぼでは香りと気配を頼りにエンジェルを見つけだせるくらいに。
 見えないからこそ、彼女は透明の存在のエンジェルを見つけることができた。
 もしも、見えていたら……二人は絶対に出会わなかったし、エンジェルはひっそりと誰も知らないところで孤独に陥っていただろう。
 二人は互いの存在で互いの世界を作り上げていった。怖いことも、苦しいこともない、美しい世界。エンジェルが私たちに見せてくれる世界は、いつも優しい色をまとって輝いている。そして、マドレーヌは柔らかい光に包まれている。
 しかし、そんな幸せな時間は長く続かない。マドレーヌが手術を受けて、目を直すというのだ。
 エンジェルはその報告を受けて、ひどくショックを受ける。だって、世界を“感じる”彼女だからこそ、エンジェルを見つけ出せたのだ。もしも、エンジェルの存在を知ったら、マドレーヌが受け入れてくれる保証なんてどこにもないのだから。エンジェルの絶望は計り知れない。
 それでも、母のいなくなった世界で、唯一のマドレーヌの存在をエンジェルは待ち続けた。マドレーヌの気配が、そこかしこに息づく大きな屋敷のなかで。

 数年の月日が経ち、彼女は二人の思い出の場所へと帰ってくる。もちろん、エンジェルに会うためである。
 エンジェルは成長した彼女の姿を、ただじっと見つめる。彼女のサラサラと滑らかな髪も、凛とした横顔も、美しい裸体も。
 そして、そんな彼の視線をマドレーヌも感じる。しかし、あの頃とは違い、エンジェルのそれだと気づくことはない。だから、エンジェルは恐ろしくて、彼女に自分の存在を伝えることができなくなってしまうのだ。
「僕を見ないで。君に見られるのが、怖いんだ」
 見えない姿を見られたら、幻滅されるかもしれない。見えない自分の存在を、もしかしたら彼自身が疑っていたのかもしれない。自分は、母とマドレーヌ以外に存在を肯定してもらえていないのだ。もしかしたら、自分は存在しないものなんじゃないか、と。
 おびえながらも、二人の恋は止めどなく深まっていく。言葉を交わして、身体を交えて。
 こんなに美しくて幸福に満ちたラブシーンを、私は知らない。
 エンジェルがマドレーヌを、どれだけ大切に思っているのか、私は思い知らされてしまった。丁寧に、確かめるように彼女の肌を透明な手が触れていく。ひどく官能的で、切なくて、愛に溢れている。二人の幸せと、エンジェルの不安が入り混じって、私はなんといっていいのか分からずただ茫然とした。そして、無性に泣きたくなった。

 マドレーヌは、エンジェルの姿を知って彼の存在を拒否してしまう。
「あなたがどんな色でも、色を持っていなくても愛すわ」
 そう言ったはずなのに。彼女がエンジェルを好きなことも、彼への愛も本物だ。でも、人間は自分の知っていることからかけ離れた事象を提示されたとき、一度はねつけてしまうことがある。
 冷静になると、大きな問題じゃないことも多いのにね。
 マドレーヌは、きっと自分の言葉を後悔したと思う。
 彼のことが好きなのに、愛しているのに、どうして私は――。
 彼の存在を、彼女だけが感じていた。肌も、体温も、香りも。世界で、彼のそれらをすべて知っているのはマドレーヌしかいないのだ。
 そして、彼女は絶対に彼の存在を忘れることはできない。彼女にとって、世界が暗かったとき、彼が彼女にとっての唯一の存在だったのだから。
 エンジェルも同じだ。だから、心の底から彼女の幸せを望んだ。
 そして、マドレーヌはエンジェルと手を取る幸せを選んだ。昔のように、隠れてしまったエンジェルを見つけ出して。

「二人で暮らすための工夫を考えましょう。大丈夫、うまくいくわ。」
 マドレーヌとエンジェルは、二人だけの新しい生活を始める。二人の生活にはたくさんの工夫がある。それは、姿の見えないエンジェルとうまく暮らしていくためだ。
 でも、これって透明人間と人間の生活から必要だというわけじゃない。互いに姿が見えている私たちにも、必要なことだ。
 だって、そうでしょう。私たちは、どんなに言葉を交わしたからといって、全てを知りえることなんて決してできないのだから。私たちはどんなに好きでも、どれだけ願っても一つの生き物にはなれない。考え方、感じたものを全て正しく微細のズレもなく伝えることなどできないのだ。

 この映画に登場する人物はたったの三人。エンジェルにマドレーヌ、そしてお母さん。
 それぞれがそれぞれの存在を、自分の世界の唯一の人としている。もっと簡単に言えば、“あなただけがいればいい”という世界をそれぞれに構築しているのだ。
 君だけがいればいいから、君と私の存在する世界のことだけを考えて、その世界を心から愛する。それだけのシンプルな物語。
 エロティックで美しくて、そしてじんわりと満たされる。
 なんて贅沢な時間。うっとりとスクリーンに映し出される美しさに酔いしれて、何も考えずに二人の作り出した世界の破片になる。
 いつか、私も“唯一のだれか”の隣でこの映画を観てみたい。ロマンチストなパートナーを見つけなくちゃ。

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