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「をはらせ屋」 〜終活サポート水先案内事務所の優しい怪奇譚〜 1章 第13話(全13話)

第一章【case1.船木家の終活】 第13話


  ◇

「馬鹿だなあ、春子。せっかくこんなに大事な日記を用意してくれていたというのに、預けたことを忘れてしまっては意味がないじゃないか……」
 春子さんの日記を最後まで読み終えると、秋男さんはそう呟いてから、目に溜め込んでいた涙を一筋、頬に流した。
 閉じられた日記帳の上に、ぽたりと歪な形の水滴が落ちる。
 傍らで共に日記帳を読んでいた俺と水先さんは、ただ静かに、秋男さんの心が整うのを待った。
 秋男さんはしばしの沈黙を挟んだのち、自虐するように呟く。
「いや、もっと大馬鹿者なのはわたしの方だな……。なんでもっと早くに、春子や夏樹と向き合ってやろうとしなかったんだろう」
 永遠に解かれることはないだろうと思っていた謎の答えに触れ、募る後悔に苛まれる様子が、手に取るように伝わってくる。
 水先さんは、縁側で揺り椅子に腰をかけてゆらゆらと揺れたまま、何かを懸命に行う様子の春子さんを横目で見つめながら、ポツリと言った。
「僭越ながら……常に正しい選択肢だけを選び、微塵の後悔もなく生きていける人間なんてそういないと思います。たとえ過去に誤った道を選んで進んでしまっていたとしても、今、こうしてきちんとその事実と向き合えているのですから、もう、それでよいのではないでしょうか」
「水先さん……」
「もしそれでも、どうしてもご自身が許せない、何かで償いたいと仰るのであれば、夏樹様や春子様が望まれることはただ一つ。秋男様が罪意識に苛まれてこの先生きていくことよりも、楽しかった家族の思い出を胸に描いて、前を向いて歩んでいくことの方ではないかと、わたくしは思います」
「……」
 水先さんの言う通りだと、俺も思った。
 秋男さんは唇を震わせて、その言葉を噛み締めている。
 俺のような未熟な人間が、その会話に横から割り込んでいいものかどうか迷ったけれど、黒い影が……夏樹さんの亡霊が、俺に教えてくれたことを無駄にしたくはなくて、意を決して口を挟む。
「俺もそう思います」
「……っ」
「三瀬さん……」
「生前の夏樹さんが守ろうとしていたのは、家族三人が笑顔で居られる場所だったはずですよね?」
「……」
「秋男さん、もう充分苦しんだじゃないですか。もう誰も、秋男さんを責めたりなんかしないと思います。だから……夏樹さんのためにも、この日記を託してくれた春子さんのためにも、前を向いて、笑って生きてください」
 黒い影は……夏樹さんの亡霊はきっと、思い詰めたように毎日を過ごす秋男さんをなんとかしたくて、精一杯、忘れ去られていた春子さんの預かり証の存在を、俺に訴えていたのだと思う。
 だとすれば、いまだ成仏できない夏樹さんの未練を解消する方法はただ一つ、秋男さんの後悔を解き放つこと。
 秋男さんを笑顔にすることが、結果的に船木家に相応しい終活になるのではないかと、俺はそう考えていたのだ。
「ねえ、春子さん。春子さんだってその方が――」
 だから、いつになく食い下がって身を乗り出す俺。
 まともな答えが返ってくることはないだろうとわかっていながらも、秋男さんの背を押したい一心で春子さんに賛同を求めようとしたのだが、揺り椅子に乗って揺れていた春子さんを見て、俺はぎょっとした。
「って、え? 春子さん……?」
 春子さんが、どこから持ってきたのかハサミを手に持って、何かをちょきちょきと裁断している。
 スカートの上が細かい紙だらけになっているのだが……一体何事だろうと目を凝らすと、裁断された紙屑の紙片の文字から、どうやらそれが、あの『離婚届』であることがわかった。
「春子さん、それ、離婚届……」
「ああ、そう」
 いや、『ああ、そう』って。
 春子さんが何食わぬ顔で返事をするものだから、思わず苦笑がこぼれてしまった。
 春子さんは裁断し終えた紙屑をゆっくりとした動作で庭に放ち、舞い散る紙片を見つめながら、嗄れた声でつぶやく。
「もう、いらないと思って」
「春子……」
「だって、もう必要ないもの。ねえ、秋男さん」
「……」
 座卓を振り返り、無垢な瞳で縋るように問いかける春子さん。
 彼女がいったいどこまでそれを理解しながら問いかけているのかはわからない。
 ただ、長年届かなかった自分と夏樹さんの思いがようやく秋男さんに届いて、破り捨てるときが来たことを肌で感じ取ったのかもしれない。
 そんな春子さんを見て、溜め込んでいたと思しき涙を次々と溢れさせる秋男さん。
「ああ、そうだな」
 彼が小さくそう肯けば、
「……そう。そうよね。ああ、よかったわ」
 春子さんは満足そうに頷き、再び、散り散りになった紙片を無邪気に庭へ撒く。
 風が吹いてそれが桜吹雪のように舞い上がれば、春子さんは「あら、桜みたい」と呑気な声をこぼして、愉快そうに目を細めていた。
 老眼鏡を外し、しきりに涙を拭っていた秋男さんは、やがて席をたち、春子さんのそばに跪く。
 小さく丸まった秋男さんの背中が、揺り椅子で揺れる春子さんの傍らに寄りそうと、春子さんはそれはそれは嬉しそうな顔で秋男さんを見上げた。
 春子さんの笑顔、初めてみたかもしれない。
 つられるように秋男さんが笑っている。
 ようやく交わる二人の視線。そこに言葉はなかったけれど、二人の間にはもう、何も隔たりはなかった。
「(……いきましょうか)」
「(はい……)」
 俺と水先さんは顔を見合わせると安堵するよう頷きを交わし、二人の邪魔にならないようそっと席を立つ。
 これでもう、二人の心がすれ違うことはないだろう。
『死』を前に、『生』を見つめ直した二人には、末長く仲良く寄り添ってどこまでも生きていってほしい。
 そんな切実な願いを抱きながら、俺と水先さんは船木宅を後にする。
 玄関を出て、駐車場に向かうとしたそのとき――。
「三瀬くん!」
 名を呼ばれたため、立ち止まり、後ろを振り返った。
 そこには、慌てて出てきたのだろう、ついに俺の名を間違うことなく一発で呼んでくれた秋男さんが立っていて、その傍らには春子さんの姿もあった。
「秋男さん……」
「三瀬くん、水先さん。……二人とも、本当にありがとう」
 そう声を張り上げた秋男さんは、隣にいる春子さん共々、俺たちに向かって深々と頭を下げた。
 慌てて姿勢を正すと、俺たちも改めてお辞儀を返す。
「いえ。お二人とも、どうか末長くお元気で」
「こちらの方こそ、この度は弊社をご利用いただき誠にありがとうございました。何か変わったことやお困りごとがございましたら、すぐに駆けつけますのでお気軽にご連絡くださいませ」
「ああ、そうだな。ぜひ、そうさせてもらうよ」
 別れの挨拶を交わし、手を振り合う俺たち。
 ああ、これでついに終わるのか。
 そんな感慨深い想いを胸に、屋内に戻って行こうとする船木さん夫婦から背を向けようとして――ふと。
(あ……)
 誰もいなくなった玄関先に、〝黒い影〟が立っているのを認めた。
 ――夏樹さんだ。
 以前に見たままの、すらりと背の高いシルエット。
 一点をじっと見つめる俺に気づいた水先さんが、小首を傾げてこちらを見ている。
 いつもなら、自分の挙動を怪しまれないようなんとか誤魔化すところなのだが、この時の俺は、現実から目を逸らさなかった。
 ただまっすぐに、夏樹さんの黒い影を見つめる。
 すると、その瞬間……黒い影が弾けたように飛散し、代わりに、確かな色と輪郭を帯びた、淡い輝きを纏った夏樹さんが、姿を現した。
(な……)
 色白で重めの前髪に、切れ長の目。すらっと高い身長に、遺影と同じ服装。
 やや透けてはいるけれど、遺影通りの夏樹さんだ。
 霊感体質になってからというもの、今まで散々黒い影を見てきたが、こんなにもくっきりとした人の形でソレが視えたことは一度もなかった。
 夏樹さんは戸惑う俺に構わず、静かに目を細めると、
〝ありがとう――〟
 小さな声で確かにそう呟き、その顔いっぱいに満面の笑顔を浮かべてみせた。
「……」
「どうかしましたか? 三瀬さん」
 俺の隣で水先さんが不思議そうに首を傾げているが、やはり俺以外の人間には夏樹さんの姿が視えることもなければ、その声が聞こえることもないようだ。
「いえ……なんでも」
 俺は静かに微笑み、夏樹さんに小さな会釈を送る。
 すると夏樹さんは満足したような表情で頷き、やがて音もなくサラサラと大気に溶けて消えていった。
「なんでも……ですか」
「ええ。なんでも……です」
 きっと、おそらくは。
 彼の未練が終わったのだろう。
 確証なんてどこにもないけれど、最後に見た夏樹さんの表情は、とても穏やかで、優しくて、安堵したような顔をしていた。
 俺は、大気に溶けていった夏樹さんの姿をいつまでもぼんやりと見つめながら、ぽつりと口を開く。
「水先さん」
「はい?」
「職場体験って、今日で終わりでしたよね」
「……ええ、そうですね」
「その」
「はい」
 そこまで言いかけてから、俺は、意を決して彼女に向き直る。
 儚げながらも芯のある、凛とした瞳と目があった。
 正直、まだ、迷いはあるといえばあったし、不安だって尽きない。
 けれど俺は、何かに突き動かされるように、その時芽生えていた自分の意志を衝動的に告げていた。
「自分に、御社の本試験を受けさせてもらえませんでしょうか」
 水先さんが、驚いたように目を瞬く。
 ――俺はまだ、この業界のことをよく知らない。
 職場体験をしたとはいえ、この業界の入り口に、ほんの少し立っただけにすぎない初心者だ。
 それでも俺は、秋男さんや春子さん、夏樹さんとの出会いを通じて、もっとこの業界のことを知りたいと思ったし、生と死が密接しているこの環境でなら、今の夏樹さんのように、苦手意識のあった自分の特異体質と向き合いながら働いていけるのではないかと、直感的にそう感じていたのだ。
「奇遇ですね」
 開口一番、水先さんが発した言葉はそれ。
「実は私も、三瀬さんに本試験のご案内をお伝えしようと思っていたところでした」
「ほ、本当ですか?」
 珍しく無表情を崩し、口元に微かな笑みを刻む水先さんに、思わず前のめりになる俺。
「ええ。ただ……本試験となると、今までと違ってジャッジの厳しい事務長・テラヤも加わることになりますので、大変険しい道のりになるかと思いますが、覚悟は宜しいですか?」
 水先さんが、意地悪く脅しをかけるように畳み掛けてくる。
 なんだよテラヤ、お前、そんなに癖ありな事務長だったのかよと今さらながらにその現実に慄きながらも、この縁を逃したくない俺は、二つ返事で応戦する。
「望むところです」
「かしこまりました。では詳細については後ほど、事務所に帰ってから詰めましょうか」
「はい」
 短いやり取りとわずかな笑みを交わすと、俺たちはようやく踵を返し、駐車場に向かって歩き出す。
 かくして船木さん夫婦とその息子・夏樹さんの終活、そして俺の『水先案内事務所』での職場体験および初仕事は、静かに幕を下ろしたのである――。



 第一章 case1. 船木家の終活 ―了―
※本作品はコンテスト参加用書き下ろし作品のため、第一章にて一部完結とさせていただきます)


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