【読書の記録(感想②)】笑わない数学者/森博嗣
①に続き、感想を綴る。
私は、犯行に伴うトリックが分かりやすいのに、動機が分かりにくいという現象が起きていることに、気持ち悪さを感じ、しばらく、本を閉じられないでいる。※内心、次作を読み始めたいと思って、仕方がなかった。
「不定」という言葉は、本作では、第5章2節目で、刑事の荻原からの犯人に迫る質問に対して、博士から“「不定だ」“という回答の際に、多く語られている。
“「そうだ誰でも可能だ」“”「物理的に可能な人物の集合だ」“
「コトバンク」で調べると、意味は「①決まっていないこと。一定しないこと。②方程式の解が有限個に定まらないこと。」ということである。
(不定方程式はxとyのように未知数が複数含まれるものの、連立方程式ではなく、方程式が一つのみで、2x+3y=12のような場合で、解も複数存在することのようだ。)
そんな不定という言葉は、物語最後に、犀川先生から博士への質問に対しての回答として、気持ち悪さを持って、出てくる。
“「『睡余の思慕』をお書きになったのは貴方ですね?」”
ー“「そうかもしれない」“
“この三ツ星館をデザインされたのも貴方だ!”
ー“「そうかもしれない」“
“「貴方は、天王寺宗太郎ですか」”
ー“「不定だ」“
“「貴方は、片山基生ですか?」”
ー“「不定だ」“
“「貴方は、本当に天王寺翔蔵なのですか?」”
ー“「不定だ、、、、。犀川創平君。君の方程式の解は、今や不定だ」“
『睡余の思慕』の作者も、三ツ星館の作者も博士である(博士の可能性がある)としつつも、次の3つの質問の解が不定=物理的に可能な人物の集合とすると、いよいよ、分からなくなってくる。
犀川先生も、定義することの難しさを感じながらも、翔蔵博士であったと「定義」した。「定義するものが存在するものだ」として。
これは、第10章3節で犀川先生が、「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。」という会話から始まる問答にて、“「我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ。」”と荻原に話をしていたことにも通じる。
実際、人A、人B、人CをそれぞれA、B、Cと定義するのは、相対的なもので、絶対的な基準ではないと思われる。しかしながら、普通、私はAでありBでありCであるなんて言われても、現実的ではなく聞き流してしまい、その真意を定義しようとも思わないはずだが、今回のように、特別な地下空間で、AもBもCも存在が曖昧(実際、うち1名は白骨化しているが)とすると、無視できなくなり、定義しようにも、相対的な定義をするための基準も不定でままならずに困った気持ち悪い状況になってしまう。
物語の最後も、「犀川先生と西之園さんの関係性をどのように定義するか」「少女と老人の円の内と外をどのように定義するか」という形で締めくくられる。
確実を望みながらも、不定ばかりのなかで、どのように定義していくかで、見え方・考え方が、変わってくるということだろうか。
※まだ腑に落ちない点が2つほどあるが、改めて考えたいと思う。
※余談だが、ちょうど、クリスマス時期に、本書を読めたことはラッキーだった。アニメ「すべてがFになる」と「冷たい密室と博士たち」にて、僕の想像力は、すでに馬鹿みたいに高くなっていたが、季節感も相まって、より一層、気持ち悪さと楽しさを感じながら、本書を読むことができた。
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