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多様性って誰も叫んでない。わたしが、わたしのままでいることを、当たり前に尊重してくれるバンクーバー

バンクーバーには、カナダ人も、日本人も、アメリカ人も、イギリス人も、インド人も、中国人も、トルコ人も、いろんな国籍の人が街を歩いてる。いや、正確には誰がどの国籍なのか見分けなんてつかない。聞こえる言葉もさまざまで、あくまで共通言語として英語を使っている、みたいな印象さえ受ける。

服装も違うし(私はダウンを着ているのに、隣のお兄さんはピッチピチのタンクトップみたいなこともよくある)髪型も色も違うし、体型も違うし、メイクも違う、肌の色も違う、体の筋肉の感じとか、骨格の感じも違う、体臭というか纏っている匂いも違う。英語を話せる度合いも全然違う。当たり前だけど日本人以外にも第二言語として英語を話す人はいて、見た目が白人でも英語の意思疎通に苦労している人もいる。本当に違う。本当に、自分と他人は違う。見た目だけでは、その人のことはわからない。

だからわたしがどんな格好をして、どんなメイクをして、平日の昼間から公園で散歩しようが、拙い英語でカフェの店員さんにスムーズに注文ができなかろうが、図書館の英会話クラスで間違いだらけの英語をしゃべっていようが、道に迷って人に助けてもらおうが、他人に逐一関心しないし、自分と違う部分があっても気に留めない。見た目もバックグラウンドも違う者同士が同じ場所で生きているから「ふつうこうするよね」という「ふつう」が無い。だから「ふつう」から外れているから”ちょっと変”みたいな、"あれ?わたし浮いてる?"みたいな感じもない。もっと言うと、みんなちょっと変だし、みんなちょっと浮いてる(電車の中でご機嫌にいろんな人に話しかけてるフレンドリーおじいちゃんもいたし、イヤフォンでノリノリで口ずさんでいるお兄さんもいたし、まあまあ寒い季節にタンクトップでビーチバレーして砂まみれになっているおばちゃんたちもいる)。

これがかっこいいよね!これが可愛いよね!という一つのものがない。無理に統制されていない、合わせにいってない。自然と個性が見た目に現れている感じが素敵だ。

ただ、気にしていないというのは干渉しないというニュアンスで、助けを求められたり、助けが必要そうと感じればすぐに手を貸してくれる。実際、バスの降り方に困ったとき、隣に座っていた黒人のお姉さんに聞くとすぐに「これだよ!」と教えてくれた(バンクーバーのバスは黄色いロープみたいなのが窓に沿って張られていて、それを引っ張ると次のバス停で停まってくれる。日本人の感覚だと「ボタン」がどこかにあるんじゃないかと探してしまうから自分でいくらか考えてもわからないときは聞いたほうが早い)。

基本はGoogleマップがあれば一人でもどこへでも行ける時代になったけれど、スーパーからの帰り道、帰りのバス停の場所がわからなくなり「あれ、迷ったかも・・雨降ってきた、荷物も重いし、どうしよう、え、わたしどうやって帰るの・・・」となった(大学時代、SIMの存在を知らずに一人で紙の地図を持って歩いてたの今考えるとすごすぎる…)。そんなときは、近くにいる人に「すみません、ここまで行きたいんですけど」と数百メートル歩くごとに数人に尋ねた(ほんとに「イッテQの出川はじめてのおつかい」みたな感じで)。

すると、みんな思っている以上に親切に教えてくれる。まず表情が柔らかくなる。「ん?どうしたの?」みたいな。一瞬のことだけど、相手の雰囲気が柔らかくなる。だからわたしも、「聞いてもいいんだな、聞きやすいな」と感じる。これは言葉ではなく、その人が持っている一瞬の人間性というか。めちゃくちゃフレンドリーなわけでもないし、かと言ってせかせか忙しそうであしらうわけでもなく、こいつ英語あんまりだな…って面倒くさそうな感じをするでもなく、「困ってる?自分にできる限りをするよ」という気持ちが伝わる人が多い気がする(わたしが声をかけた人調べ)。

過去には別の国で、何かを尋ねようと話しかけたら断られたこともあるし、フレンドリー過ぎてちょっと引いたこともあった(それはそれで面白かったけど)。

このことをバンクーバー在住の日本人の方に話すと、「移民に慣れているんだよね。その人たちも元々は移民で来ていたり、親が移住して来てたり。だから外国で暮らす大変さがわかる人が多いのかもね」と教えてくれた。さすが移民大国だ。

もし本当に、「わたしも最初は大変だったからさ、わかるよ」という気持ちで困っている人を助けるハードルが低いのだとしたら、自身の経験を相手への想像力に変えてやさしい循環を回している街なのだなと思う。少なくとも移民として来ている身としては、とても安心感がある。「ここにいていい」と思える小さくない理由になる。

もちろん差別主義者がいない国なんてないだろう。人間だから、不機嫌な人もいるし怒りっぽい人だってバンクーバーにはいる(実際、空港の移民局でビザの不備に気づいて修正してほしいと訴えたらなぜか逆ギレされた)。それでも、概ねそれぞれの国籍やセクシャリティ、バックグラウンドを無視せず、違いを認めた上で社会が回っているように感じる。

だからバンクーバーは静かだ。「多様性!」って声高に叫ばなくていい。街に一歩踏み出せば、多様であることが大前提だから。それでも大事な意思表示は怠らない。

LGBTQ +のエンブレムが図書館に貼ってあった。ホテルやレストランでも見かける。「Wi-Fi使えるよ!」と並列で「私たちの間にある違いを尊重し、祝福しましょう」と言っている。

積極的に、主体的に、受け入れる側から言ってくれる。「あ、別に嫌じゃないですよ、わたしは別に、気にしないですよ」「否定はしませんけど」「そういう人もいるよね」という他人事ではなく、「当たり前やで!」みたいなウェルカムなテンションでこのエンブレムを見かける。「わたしがどんな国籍でも、セクシャリティであっても、ここにいていいんだな」と思えて嬉しかった。日本ではまだそういう体験をしたことはない。

図書館やコミュニティセンター(日本でいう公民館)にはキッズスペースも充実していてファミリー向けの無料イベントもたくさんあった。オフィスやレストランだけでなく、子どものいる場所も気軽に見つけられるのは「子どももここにいていい」と言っているように感じるし、間接的に「子連れの親もここにいていい」と言われているように感じるのではないだろうか(おそらくバンクーバーの人たちにとってはそれが当たり前過ぎて、居ていいなんて感覚は皆無だと思うけれど)。

図書館ではスタッフのおばちゃんたちがペチャクチャとおしゃべりをしていることもあるし、学校に行ってない様子の学生たちがグループで溜まってしゃべっているところも見かけた(学校行かないの?行かないとダメだよ!みたいな干渉する大人もいない)。だから小さな子どもがはしゃいでも、うるさい!と注意をされない。もちろん集中して作業している人もいるし、私語厳禁のスペースが区切られてたりもするけれど、基本的に「子連れで入りずらい」「子連れだから申し訳ない」と思わせる雰囲気は感じない。だからキッズスペースでは、子どもを遊ばせながら親同士のつながりの場のようになっている様子も見かけた。

バスも電車もトイレもエレベーターも、カフェもレストランも。みんな当たり前に席を譲るし、迷惑そうな顔もしない。親も「すみません」と謝らない。平日の昼間や夕方にお父さんがベビーカーを押したり子どもを保育園に迎えに来ている光景も見る。子ども向け・ファミリー向けのイベントでも「ママのための」とか「ママも一緒に」という表現も見かけない。

子育てや共働きが大変なのは世界共通だろう。それでも個人(親)の頑張りや責任だけにせず、税金を使って公共の施設を充実させたり、親以外の大人たちが子どもを見守る雰囲気によって"子育てのしやすさ、しづらさ"は格段に変わるように思う。もちろんわたしの感覚的な部分もあるけれど、少なくとも日本のように子どもの声がうるさいと言って公園を潰すようなことは絶対にしないだろう。公園も広くて、遊具やテニスコート、サッカーグラウンド、陸上競技場、ウォーキングスペース、ベンチなどがあって、さまざまな過ごし方ができる。だから晴れた日には、大人も子どもも、高齢者もベビーカーに乗った赤ちゃんとその親なども、いろんな人が集まってくる。

コンビニや街中で、女性または女児を性的に強調したデザインのポスターやエロ本を目にしない。電車やバスの広告で、整形も脱毛もダイエットも促されない。それもいい。

その代わり、バンクーバーのバスの広告には、メンタルヘルスの不調を感じたときにかける電話番号や、オーバードーズを起こしてしまったときの緊急連絡先(日本でいう119番みたいな)が貼ってある。駅のホームや街中に広告やポスターはあれど、若い女性もいれば男性もいて、年齢も肌の色も体型もさまざまなモデルが起用されている。

街で目にするもので、いちいち「なんか嫌だなぁ」と心の中で思わなくていい。自分の身体の価値が、性や年齢によって変わると思わされなくていい。着たい服であっても「露出を控えて、ボディラインが出ない服にしとこ」「これおばさんっぽく見えるからやめとこ」「もうこの歳にもなって」なんて考えなくていい。なんて楽なんだろう。

バンクーバーのトイレは、「オールジェンダートイレ」が多いのもいいなと思う。公共施設やレストラン、カフェなどを含めて、日本でいう多目的トイレのような広い空間が取られている。もちろん男・女トイレで別れているとこもあるし、それに加えてオールジェンダートイレがつくられているところもある。

図書館にはオールジェンダートイレしかなかったから、最初は「入っていいのかな?」と戸惑ってしまった。日本だと車椅子やベビーカーなど必要な人が優先的に利用するトイレという認識が根強かったから。でも慣れると、「これは誰もが使いやすいだろうな」と感じる。もちろん男女共用なのが嫌だという人もいるかもしれないけれど、当たり前だけど個室になっているからちゃんと鍵もかかるし、思ったより汚くもない(日本人でも抵抗なく使える)。車椅子やベビーカーの人も気兼ねなく使えるし、トランスジェンダーの人も使いやすいだろう。実際、バンクーバー在住のトランスジェンダーの友人も「日本と比べてトイレは本当に楽になった」と言っていた。

日本では昨年、新宿・歌舞伎町タワーに「ジェンダーレストイレ」を設置したら抗議が殺到してわずか4カ月で廃止になったというニュースを見た。先進的な国ではどんどん取り入れていることを、なぜ廃止してしまうのだろう。初めての試みに問題があることは仕方のないこと。設置の仕方を改善したりブラッシュアップすればいいだけの話なのになぜ廃止なのだろう。なぜ、"違い"を排除してしまうのだろう。「この店のパスタまずい!」「店員の態度が悪い!」とクレームが殺到しても店は閉めないだろう。多くの場合、改善していけば問題ないはずだ。

実際、バンクーバーでオールジェンダートイレを使っても、わたしは何も迷惑に感じないし、苦労もしていない。わたしは女子トイレと同じような感覚で使えばいい話なだけであり、何も支障は被っていない。むしろ空間が広いため大きい荷物でも入りやすい。

こんなふうに日本では認められていない、または選択肢がないけれど、カナダでは当たり前に認められていることはたくさんあるのだなと感じる。

例えば、カナダは2005年から同性婚が認められている。コモンロー(事実婚)は性別関係なく法律婚とほぼ同等の扱いとなっており、それでも宗教や結婚観、離婚歴などさまざまな理由でコモンローを選ぶ人も多い。法律婚であっても夫婦別々の名字を名乗ったり、新しい名字をつくって名乗ることもできるらしい。

日本との、圧倒的なまでの選択肢の差に絶句した。

わたしはつい数ヶ月前に結婚をした。法律婚をしたいけれど、夫婦お互い名字を変えたくないため、やむを得ず事実婚を選んだ。この選択肢の差は、なんだ……。なぜ日本に生まれただけで?もしわたしがカナダ人だったら、しなくていい苦労をしてるってこと?そんな人が日本にはたくさんいるってこと?

日本では、事実婚も名字を変えないことも「ふつう」とは違うというカテゴライズなんだろうなとも感じることは多い。親しい人との会話でもモヤモヤするなぁとか嫌だなぁと感じることも少なくない。

「名字がバラバラだと家族の絆が薄れるから」とかいう反対意見がどれほどヤバい発言なのか、バンクーバーにいると悲しくなる。他人の家族がどんなふうであろうが「まじで干渉しないでくれ」の一言である。

バンクーバーに住んでいる友人にそのことを話すと「え!日本ってそんな感じなの?カナダはコモンロー(事実婚)も、そこらじゅうにたくさんいるよ!」と言っていた。「いいなぁ」の一言である。

わたしは、わたしのままでいたいだけなのに。なぜ、モヤモヤしないといけないのだろうか。わたしが「こうしたい」と思うことを、なぜ変えなければ権利が認められないのだろうか。

西加奈子さんがバンクーバーに住んでいたときのことを綴ったエッセイ『くもをさがす』では、こんなふうに書かれていた。

バンクーバーはそれぞれの文化を放棄して「溶け込む」必要はなく、皆が持ち寄った文化を保存し、尊重し、「そのまま」でいられる街なのだと。

西加奈子『くもをさがす』

日本で読んだときは「そうなんだな」くらいにしか思わなかった一文が、バンクーバーで読むとズドンと突き刺さる。そう、そうなのだ。わたしが、わたしのままでいることを、当たり前に尊重してくれる街の雰囲気、人の振る舞い、公共施設、制度。それらがとても健全で心地いいから、住みやすいと感じるのだ。わたしは、無理に溶け込まなくていい。「溶け込みたい部分」と、「そのままでいたい部分」すら、自分で選んでいい。そしてそれは特別なことではなく、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という当たり前のことなのだ。

もちろんカナダにも声をあげるべきことがたくさんある。社会問題もたくさんあり、完璧ではない。大麻が合法なので心身ともにボロボロな人もいるし、ホームレスもたくさん見かける。そういう治安の悪い区域を通るときは怖い思いもした。日本の良いところも魅力的なところもたくさん知っている。でも少なくとも、「多様性!認めて!わたしを!」と、必要以上に叫ばなくていい、または長い年月をかけて訴え続けなくていい、おかしいと思うことに対して声を上げづらいという雰囲気が無い。誰でも当たり前に尊重されるべきであるという大前提が、水源のように湧いている。それは社会とつながる上で安心感と信頼をもたらす大切な基盤なのではないだろうか。

絵を描いた。色とりどりの美しい落ち葉の絨毯は、まるで多様なバンクーバーそのものだなと思った。

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