多幸感にあふれた一冊-島本ちひろ『あめつち分の一』(六花書林)歌集評-(三沢左右)

 島本ちひろさんの第一歌集。二〇一三年に「コスモス」出詠を開始し、二〇一四年にはO先生賞を受賞した気鋭の作者である。「コスモス」には珍しいファンタジックな作品の多さが印象的だ。しかしその作風はただ読者をおどろかせるだけの奇をてらったものではない。ファンタジーにも日常詠にも、作者ならではの新鮮な視点が冴える。新鮮さの底には「実感」が伏流している。

丁字路のカーブミラーはひとつきり月の明かりに照らされている
「人間のつむじを愛しているうちに背がのびたのよ」欅はわらう
陽をよけて車の下で寄り添いぬ名無しの猫は名有りの猫と
河童だと誰にもばれたことは無く昇太はシャツの裾を出さない


 ファンタジックな一首目と二首目は「星を蒔く」と題された一連から引用した。町中のどこにでもある「カーブミラー」が「ひとつきり」と表現されることで、風景に埋もれない強い実在感を獲得し、「欅」は「人間のつむじを愛」するという意外な具体によって、擬人表現に実感がこもる。対象に託された作者自身のまなざしが、実感を支えている。
 「ヘヴンで」の一連から引用した三首目は、ファンタジーではなく現実の猫の姿を詠んだものだろう。「名無し」と「名有り」、もちろん猫自身がその違いを気にすることはない。感情を動かされるのは、「区別」の意識を抱える作者であり、私たち読者である。
 四首目は河童を主人公とした連作「昇太の話」から。異色の連作だが、非常に完成度が高いファンタジーで、私小説の趣もある。
 動植物や無機物、ときには河童になりかわって詠まれた作品であっても、作者の心身の在り方や実感が刻み込まれることで、作品世界の独自性と一回性が強調され、一首一首の輪郭が際立つ。作者と世界とが緊密に結びついた、島本さんならではの語り口である。
 もう一つ、本歌集の魅力に「肯定感・多幸感」がある。

川風が私のかたちを確かめて吹き過ぎてゆく新しい街
掠れたる「止まれ」の標示のその上を二匹の蝶がもつれあい飛ぶ
泣きじゃくる夕焼け小僧を抱き上げてからすといっしょにかえろうと言う

 一首目、風に対する心寄せと、街の一部として自身が存在することへのおおらかな肯定感が爽やかだ。二首目、「止まれ」の標示や「二匹の蝶」からは象徴的な意味も読み取れるだろうが、まずは情景の鮮やかさを味わいたい。島本さんの作品には、世界の美しさを、率直に、くきやかに切り取る豊かな視点がある。
 また、本歌集には出産や子育ての作品も多く収録される。童謡を効果的に援用した三首目、「夕焼け小僧」の一語によって、目の前の子と、子を包み込む母親である作者、そして二人を取り巻く世界が豊かに描き出される。
 ただし、この多幸感は、単純なものではない。一冊には、〈かげり〉を含む作品も襞のように織り込まれる。

こんなにも咲いてしまって桜森からだの置き場が分からなくなる
十代の記憶のなかに燃やしたき記憶あり遠き父と黒犬
追思せよ 十一歳の夏休み父とキャッチボールした日の空を
「胸」という字の中の×を書くときに力を込めてしまう日もある


 一首目、幸福な瞬間にも不意に重なってくる過去の〈かげり〉に、後ろめたさを感じてしまう心の在り方が詠まれる、重層性をもった歌である。
連作「黒犬の事」から引用した二首目と三首目にも、過去の傷や自己否定の感情が垣間見える。しかし、そこで作者の感傷は内省に終わらない。まっすぐに過去と向かい合い、過去を引き受ける芯の強さが頼もしい。四首目の「×を書く」ときに込めてしまう力が、痛みを抱えながらも、同時に力強く日々を生きゆく島本さんの歌が持つ力であるように感じられる。
 世界を見つめ、身の周りの存在ひとつひとつを肯定してゆくことで、自身を、子を、世界を肯定してゆく。この姿勢が『あめつち分の一』というタイトルにはよく表れている。
 冒頭で「『コスモス』には珍しい」と書いたが、それは「『コスモス』らしさが薄い」ということではない。島本さんもやはり、「生の証明」を高らかに歌い上げているのである。
 歌集出版までの期間に転居や結婚、出産を経験した島本さん。そうした節目の瞬間瞬間が反映された短歌の数々には、生命感と詩情が溢れ、爽やかで、何より楽しい。
 宝箱や遊園地のような世界に遊ぶ一冊。読者は開かれた蓋のなかをのぞき込むことで、自身の生きる世界が宝物にあふれていることに気づかされる。多幸感に満ちた一冊だ。
 最後に、島本さんの古くからの友人であるという染谷みのるさんの手になるポップな装画を楽しんだら、カバーを外してみてほしい。楽しい仕掛けがある。

文・三沢左右

歌誌「コスモス」2019年12月号(歌集批評特集)より転載

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