「努力したくない人」は、社会をパラダイムシフトするかもしれない
佐々木俊尚さんのVoicyをよく聞いているが、昨日の内容はちょっと考えてしまった。
以前の日本は、ある程度強制的に全員同じ教育をすることで、スキルもある程度横並びだった。
最近はYouTubeやネット、書籍などで独学できる環境が整ったので、学びたい人はどんどん学んで優秀になる。
それ自体は一見良いことなのだが、問題は学ばない人・努力しない人との差がどんどん広がっていくということだ。
努力しない人も普通に生きていけるのが「多様性社会」なのでは?というような内容だった。
マイケル・サンデルの近著も、これに近い問題の指摘がある。
成功した人は、そうでない人を「努力が足りない」と語りがちだ。
だが、そもそも生まれた家庭環境等によって努力にアクセスできないケースもある。
それを考慮しないのはおかしい、という話だ。
優れた学びを得るには経済的余裕も必要だし、親の考え方にも影響される。
どの方向で努力したらいいのかすらわからない、という状態になることも十分考えられるだろう。
でも、この話でも見落とされていたのが昨日のVoicyの指摘だ。
そもそも「努力したくない人」は社会的に許されないのか?
どんなことでも、社会にはいわゆるハウツーが溢れている。
どうしたらたくさん稼げるようになるのか?
どうしたら健康でいられるか?
どうしたら結婚できるのか?
どうしたら安心した老後を送れるのか?
どうしたら孤立しないのか?
どうしたら穏やかに死ねるのか?
ハウツーには「出来なかったらこんなに不幸」という恐れが見え隠れする。
不幸になりたくないなら、努力しなさい。
そのための方法はコレです、と。
でも、努力するって大変なことだ。
お金もかかるし、何より時間と体力が必要だ。
私は虚弱気味で体力がなく、体調不良の日が多いので、タフな人ほど努力はできない。
体力がないなんてことは言い訳がましく聞こえるので、努力できる成功者の前でこんな事は言えない。
タフな人がとても羨ましいし、虚弱な自分を「気合いが足りないのかな」と責めることもある。
体力不足で努力できない事で自己嫌悪に陥るのはつらい。
つらいから、もう今では出来るだけ、身の丈以上の努力をしない。
努力したいとも思わない(ようにしてる)。
「努力のしたくない人」というのは、成功者から見ればただの怠け者で、不利益を被るのは当たり前に見えるだろう。
「努力したくてもできない人」は支援の対象になるけど、「努力したくない人」は論外だ。
でも、「努力したくない人」は社会にとって邪魔なのか?
もちろん、そんなわけはない。
「努力したくない人」という言い方は、ある側面からでしか人を見ていない。
極論で言えば「社会に有益=お金を稼げるか」ということだ。
例え成功しなくても、成功に向かって努力したいと思う人が存在するからこそ、成功者は成功者でいられる。
ところが「努力したくない人」という存在は、成功者の存在意義を覆す存在だ。
お金がなくても、モテなくても、孤立しても、蔑まれても、それでも「努力したくない」と言い切れる人は、社会的成功者のことを羨んだりしない。
それどころか、成功者を成功者とすら思わないだろう。
もしこういう人がいたら、むしろ貴重だ。
社会をパラダイムシフトさせる可能性すらあると思う。
社会が定義する「成功」や「不幸」の定義を根本から覆すからだ。
社会的価値なんて、ちょっとした状況の変化であっという間に変わる。
大地震やコロナのように、予想もつかない天変地異は実際に起こるし、そうなると何が価値を生むようになるのかはその時にならなければわからない。
そうなった時、「努力したくない人」のような存在は社会を救うかもしれない。
今までは何の価値もないように見えた人が、急に「幸福」の象徴のように見えるかもしれない。
あらゆる社会的成功を失った人にとって、元々努力せずに満足して生きている人の存在は希望にすらなるだろう。
生物は、あらゆる多様性を引き受けることで進化し、繁栄してきた。
非効率的にみえる身体構造を持つ突然変異種のおかげで、突発的な環境変化に耐えた例もある。
「努力したくない人」を社会が受け入れられるかどうか。
国や社会がこれからも持続するには、こういう多様性を受け入れられるかどうかにかかっているのかもしれない。
もし受け入れられなければ、何かのタイミングで滅びるのだろうけど、それはそれでその後に残る何かのためになるのだろう。
多様性がどうしてあるのか。
まずはそこから考えると、違う視点が見えてくると思う。