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薄味

 六畳ワンルームはもう少し狭いものだと思っていた。この部屋を初めて訪れたとき、大家さんのいる前で思わず、狭っ、と口に出してしまうくらいには窮屈に感じたのだ。住めば都と言うし次第に慣れていくものなのだろうと自分に言い聞かせてみるものの、本当にこの部屋で生活の総てが完結するのだろうかと内心不安だった。だが、それは杞憂に終わった。実際に家具やら家電やらを設置してみても、そこまで圧迫されているようには感じない。寧ろ広いくらいだ。今日からここがマイホーム。引っ越し初日で、新生活に胸を躍らせていた私は、上機嫌で声高らかにそう言ったものだ。今となってはあの頃が懐かしい。
 今、私は絶賛ホームシック中である。大学の授業が始まり、てんやわんやする日々。誰かに愚痴りたいけど、そんなことができる相手がいない。食事も、掃除も、洗濯も、何もかも、自分のことは自分でしなくちゃいけない。それが一人暮らしというものなのだというのは分かっている。私もそれを承知の上で、都会の進学先を選んだのだ。でもやっぱり、親に頼れるうちは頼っておくんだったと後悔している。改めて、高校まで私の身の回りの何もかもをしてくれていた両親は偉大だと思った。一人暮らしをしてみて、生活を回すということの大変さに気づいた。今までも、大変なんだろうなぁと漠然とは思っていたけれど、自分でやってみるとはっきり理解できた。母の日とか父の日とかあるけれど、毎日感謝尽くしで生きるべきだったと深く反省する。その日だけやけにサービスよく振る舞っていた幼き日の浅はかさを恥ずかしく思った。
 家が恋しい。最近事あるごとにそう思う。夜は孤独に押し潰されて泣きそうになる。普段見ないテレビのバラエティを見て気分を紛らわそうとしたけれどうまくいかなかった。芸人の笑い声を聞いたところで虚しくなるだけだ。近くに友達がいてくれたらいいのだけれど、生憎大学は始まったばかりで、素を曝け出せる人はいない。高校時代の友達は殆どが地元に残っている。或いは遠く離れた別の都市にいる。彼女らに電話をしてみようと幾度か考えたのだけど結局かけなかった。彼女らも彼女らで忙しくしていて、私なんかにかまっている余裕なんかないはずだから。
 お腹が空いたので、今日も今日とて独り寂しく食事をする。買い貯めているカップ麺と近くのスーパーで買ったカット野菜。ここに越してきてから夕食はこの組み合わせばかりだ。最近味付けの濃いものばかり食べている。それを誤魔化そうとサラダを食べるのだけど、結局塩分や油を大量に摂取したことには変わりない。いい加減母さんに怒られそう、一瞬そう思ったけれど、いちいち小言を言ってくる人はここにはいないのだとすぐに気づく。ホッとする反面、寂しい。あんなに鬱陶しく思っていたあの人の怒鳴り声すら、今は愛しく感じてしまう。録音しておけばよかった、なんて思った。ジャンクなものばっかり食べてたら太るよ、そう言ってくれる人が傍にいないことが、今、どうしようもなく辛い。
 母さんの作る料理はどれも味が薄かった。母さんの好みでもあるのだが、一番の理由は私達家族の健康のためらしい。あんたらが高血圧にならないようにね、と母さんはだいぶ私達のことを気にかけてくれていたようだった。それにしてもやり過ぎである。お味噌汁なんて普通に作ったものを何杯も希釈したような味だったし、おかずもほんのり塩味を感じるくらいで素材の味を楽しめと言わんばかりの薄さだった。炊き込みごはんが出てきたときも、ご飯が色づいただけで普段の白米と全然変わらない。料理の素を使うときだって、調味料の分量が決まっていても敢えて少なくするし、水で割ったりするのだ。味が薄いどころの話ではなく、もはや味のしない料理もあって、そんな料理が食卓に並ぶ度、私は随分文句を言ったものだ。母さんは大抵は笑って許してくれたが、虫の悪いときは、そんなに言うならもう作らない、とカンカンに怒られたこともあった。作らない、と言いながら翌日起きると朝食の準備がされていて、私は母さんの寛大な心に大変感謝したものだ。私ならそんな生意気な口をきく奴に絶対作ってやらない。
 そんなことを思い出すと、我が家の味が急に恋しくなった。今無性に体が欲している。どうしてだろう。あんなに薄味なのに。濃い味付けの方が好きだったはずなのに。三分をとうに過ぎたカップ麺の蓋を開ける。普段はいい匂いだと思っていたのに、今日は匂いを嗅いでも食欲が湧かなかった。目頭がじんわりと熱を帯びる。涙が頬を伝って、カップに落ちた。いけない、塩味が濃くなっちゃう。独り笑う。虚しい。悲しい。寂しい。色んな感情に押し潰されそうだった。もうだめ――そう思って携帯を取る。電話をかけた。友達じゃなくって、母さんに。

 母さんはツーコールで電話に出てくれた。
「どうしたの、あんた」
あぁ、母さんだ。まだ家を出てから一月も経ってないのに、懐かしい声だと感じた。緊張が解けて、感情の詰まった袋の口が緩む。気づけば、涙が止まらなくなっていた。
「まぁまぁ、あんた、大丈夫?」
電話口で心配そうに聞いてきた母さんに、涙ながらに告げる。
「――お腹、空いた」
母さんの作った料理が食べたい――。
母さんは何か察したみたいだった。いつもより特段優しい口調で
「分かったわ。今度作って持っていったるよ」
と言ってくれた。その優しさが心に染みる。嬉しくって、また涙が溢れた。
「うちのごはんは味が薄いけど、それでもいいんならねぇ」
いいに決まってる。逆にそうでなくっちゃ困る。薄味には母さんなりの愛を感じるから。何気ない日々に織り込まれたささやかな愛情――。親元を離れて、我が家の味を口にしなくなって初めて気づいた、私はその愛に精神の大部分を支えられて生きていたのだと。

「ありがとう」
ふと口を衝いて出た。

「どうしたんだい、泣きながら電話をかけてきたかと思えば急に改まってそんなこと言って」
「別に、なんでもないよ」
ただ、伝えたかっただけ。何でもない日々にあなたがくれた愛情みたいに、私も何でもない日に何か返したいと思った、ただそれだけだから――。
 電話を終えて、とっくに伸びた麺に手をつける。食欲は戻らなかったけれど、勿体ないことはしたくない。勢いよく麺を啜った。心做しかいつもより塩辛く感じる。何よ、もう。今は薄味の気分なのに。
 広過ぎる六畳間で独り、離れて初めて気づいた愛を悔やんで啜り泣く。

【了】


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