大人の学びなおし
「おとな」って、なんだろう。
何歳になっても「こんなに格好がつかないことが多いのか、もう青二才なんて言えないのに」と思うし、「まだまだやりたいことは尽きないが、その欲求は誰しもに与えられたものではないのだな」とも思う。
じっさい日常の半分くらいは、取るに足らない欲望のかけらをごまかしごまかし、生きている。
おとなって、案外いい加減なんだなと、と気づいた瞬間の脱力感と、甘ったれたずるがしこさ、抜け道の存在にしめしめと思ったことへの背徳感を、よく覚えている。
それでも、背徳感のままに適当に生きようとは、まだ思わない。思えない。
おとなげない悪あがきだとしても。
なぜなら、まったく属性も背景も違う人たちと出会いをかさねるにつれて、目の前の環境がすべてではないと知ったから。
旅をして、自分の当たり前なんて大海の中の一部にしかすぎないのだと知ったから。
「知らないこと」が、まだまだ世界にはたくさんある。
その豊かさと途方もなさに、呆然ともしたし、高揚もした。
知れば知るほど、知らないことは増えていく。
知らないことは不安だし、おそるおそるだ。
学ぶことは勇気がいる。
でも、知らないことを知ろうと学ぶ行為は、自分を、甘ったれたずる賢さから遠ざけてくれる気がしている。
現在地を把握させるとともに、おごりを吹き飛ばしてくれる。
だから、知らないことがあるのは、わたしにとって文字通り、有難いことだと感じている。
ゆえに、思い切って1か月、まるまる学ぶために時間を使いたくて、8月は毎日平日3時間半、オンラインでデザインの勉強をしてみた。
仕事として、自分の提案とアイディアの精度を上げたかったし、勘所に頼るだけではなく、思考の型のようなものを学んでみたいと思ったから。
今回受講したのは1ヶ月コースだったけれど、一人でやるより、それぞれ目的と意志を持って参加している受講生たちと一緒に手を動かせるだけで、甘えを遠ざけられることの価値を感じたから、本当は2ヶ月、3ヶ月と参加したかった(今後受講するかも)。
じっと座って話を聞いているだけの学びは性に合わないため、早々に手を動かす授業に入れて助かった。
毎回没頭し、あっという間に3時間半経った。
少しの余白、線の角度、文字の太さや配色や、写真の選び方、絵の配置など、目に飛び込むさまざまな制作物に対して、目的と意図を考えるようになった。
以前も、考えなかったわけではない。
なぜこれは、こう配置しているんだろう、とか、なぜここは曲がっているんだろう、とか、ぼんやり想像することはあった。
けれど、デザイナーは課題を解決するのが役割だから、美的センスをふりかざし、きらびやかに装うことだけが仕事ではない。
課題を見つけ、言語化するところから仕事が始まるのだと改めて理解すると、世の中に溢れているアプリや広告、雑誌や製品は、誰の、どういう課題を解決するものなのだろうというところから、思いを馳せるようになった。
すると、スポット的なデザインの美しさではなくて、そのデザインを以て解決したい課題の持ち主──つまりユーザーやクライアントの心情が、以前よりは鮮明にイメージできるようになった。
「センスの良さ」という茫漠とした概念よりも、デザインの必然性に着目することで、何かに困っている人の姿が立ち現れるようになった。
もちろん、すごく集中しないと、それは見えない。そういう意味では、どれだけ場数を踏み、いろんな悩みに耳を傾けてきたかがデザイナーの腕に直結するのだろうなと、今は思う。
わたしの技術は、少なくとも今はデザイナーと名乗れるほどではないけれど、デザイナーが見ているメガネをかけてみることは、知らないことを知るための、一つの強力な武器になると実感した。
これだから、学ぶことはやめられない。
知らないことがたくさんあって、なかなか熟(こな)れないのは歯がゆいし恥ずかしい。
それでも「知らないから教えてください」と言える人でありたいし、教えてもらったことから次の「知らないこと」を導き出せるくらいには、自分の思考を手放さないでいたい。
たった1ヶ月でデザイナーとして仕事を受けられるほどのスキルが身についたかと言われると、まだまだ素人に毛が生えたようなものだろう。
でも、1ヶ月間、会社員をしながら、無遅刻無欠席で受講できたことに、まずはなまるをあげたい。
受講中に制作したものは2つ。
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