すべてを説明できなくてもいい
年末年始、しいたけ先生.の占いが、インターネットで多くの方にブッ刺さっているようすを、時折お見かけする。
御多分に洩れず、わたしもそうだ。
占い特有のふんわりとした抽象度が、ほとんど排除されたようなパキッとした言葉運びに、脱帽したりしなかったり、している。
いつだかの占いの文面に「天秤座は『あなたはあなた、わたしはわたし』と線引きするし、社交的な引きこもり」という表現があって「ああ、そうだなあ」と改めてうんうんわたし引きこもりなのよ、と確認したことがある。
「わたしはわたし、あなたはあなた」という姿勢は、時に冷めているととられるし、付き合いやすいポイントだととらえられることもあるし、いろいろ。
元来それぞれが、独立した一個の人間だから分かり合えないことが、あたりまえ。
だからこそ分かりあいたいと思える相手と出会えたら、最高ね、と思うようになったのはここ2、3年のことだけれど。
分かり合えないからこそ、物事をていねいに、なるべく後腐れない形で伝えたいと、よく思う。
だから、誰かと、分かりあいたいと思うときや、自分のことを相手に伝えようとするときは、わたし自身が納得していないことは話したくない、という思いがある。
腑に落ちていないことは、自分の言葉で喋れないから。
素知らぬ顔で尤もらしいことを話したとて、自分の言葉で喋っていないならやすやすと見破られるし、言葉が地に足ついていない。
言葉が浮いていると、気持ちすら、軽薄なものなのではないか?と見間違う。それがイヤ。
でも、もしかしたら、すべてを説明できなくてもいいのかもしれない、とも最近思う。
「なんとなく」とか「タイミング」とか。
理由をうまく説明できないことなんて、いっぱいある。
常に誠心誠意、一所懸命でいられないことだって、ある。
人の心ほど、右往左往するものはないのにね。
「説明したい」「わかり合いたい」という意思表示には、ときに言葉が追いつかない。
そのあいまいさともどかしさもふくめて分かち合えたら、なんて安らかだろうか。
大したオチもないのにどうでもいい話をベラベラ話してしまうと、そのたび「この人の時間を無駄にしてしまったな」と罪悪感を覚えてしまう。
けれど「わたしはわたし、あなたはあなた」なのだから、わたしにとっては無駄な雑談でも、相手には意表をつく展開ができるかもしれない。
「わたしはわたし、あなたはあなた」なのだから、わたしにはうまく言語化できないことも、相手はサラリと、適切かつ簡潔な表現を差し出してくれるかもしれない。
「わたしはわたし、あなたはあなた」。
そう、心の中で思うたび、たまらないほど切なくなった。
同時に、うじうじ二の足踏んでいた状態から脱せたり、した。
すべてが仕上がった状態なんて、逆につまらないって、自分でもわかっているつもりなのに、良い格好しいなのは、まだまだ臆病な証拠かも知れませぬ。
この記事が参加している募集
読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。