この先も「いまの私」を、常に好きでいられますように
久しぶりに、1年以上前に書いた自分のnoteを読み返していたときのこと。2021年の8月から2022年の5月にかけて、私は家を持たずに旅するように暮らす生活をしていた。(そのあと、3ヶ月の京都でのプチ移住を経て、正式に京都に移り住んできている)
あのときの、限りなく自由で軽やかで、純粋な気持ちで世界を見ていた自分自身を、なんだか、羨ましくも懐かしい気持ちで眺めてしまう。過去の自分を羨ましい、だなんて、今の自分が満たされていないと言っていることと同じかもしれないけれど。でも、なんだかそんな風ではなく、ただただ純粋に「あのときの私が好き」だったのだ。
たとえば、大好きで憧れてやまない、尾道で16日間暮らしてみたときのこと。
ああ、このときのことをありありと思い出す。大好きな景色を前に、仕事をしたり散歩をしたり。日常と旅が溶けこんで、私の暮らしそのものになっていく感覚。毎日同じようで、違う空の様子。じっくりと目の前の景色を眺めることのできる気持ちの余白が、あのときの私には確かにあった。刺激的で、でもどこか穏やかで。旅する暮らしをしていたときの私を振り返ると、「ひっそりとワクワクしていた」という表現がお似合いかもしれない。
いまの私はというと、どちらかといえば、「堅実に、地に足をつけて」生活をしている。京都での暮らしのベースも整ってきて、1つの拠点をかまえて、そこでじっくりと根を生やしながら生きている。軽やかに自由に、旅をしながら暮らしていたときとは、少し違う私がいる。毎日、同じ街で、同じ部屋で、過ごしている。それを一部の私は寂しいと思うのだけど、その一方で、むしろ「いまの私も好きだ」と思える。
それは、一度旅する暮らしを経験したからかもしれない。あのときの私は、とにかく目の前の街の景色を目に焼き付けておこうと必死だった。日本中をスーツケース1つで軽やかに移動して、行きたい場所にいき、見たい景色をみて、会いたい人に会い、限りなく自由だった。その自由を愛したからこそ、いまの堅実な私をも好きでいられるのかもしれない。
1つの拠点を構えてしまった今では、スーツケース1つで日本全国を移動する、なんてことは、きっとできない。物理的にできない、というわけではなく、気持ち的にできないのだ。あのときの私といまの私。できること、できないこと、したいこと、したくないことが、それぞれにある。だから、比べることなんてできないし、「あの頃がよかった」とは一概に思えない。あの頃の私も、いまの私も、それぞれが「私」であり続けるのだ。
どうか、この先も「いまの私」を常に好きでいられますように。