言葉があるということ
私の書いている小説『白い仔猫を飼っています』の
主人公美咲さんは『ミルク』という白い仔猫を飼っているという設定なんだけれど、実際の広美ちゃんは『チョコ』という犬を飼っている。
『白い仔猫を飼っています』のエピソードは、美咲さんが飼っている猫の話ではないのだけれど、それは書ける時がきたら書こうと思います。
猫の生態は正直わからないのだけども、マーケティング的には猫なんですよ。でも実際は犬が好き。
猫って、都合の良いときはすり寄ってくるけど、基本自由気ままで、女王様気質で、つーんとしてみれば、ほんの数秒あのふわふわの体ですり寄ってくるわけですよ。そしてするっとすり抜けていく。で、行動範囲が犬なんて重力にあまり逆らえないのに、高いところにいたりするでしょ?
手の届かない感じというべきか?よくわかんない、つかみどころのない、都合の良いときだけすり寄る人を最近、師匠と私は『猫』と呼ぶ。笑
それに比べて犬は良い。
私のモーニングルーティンが、トイレに行ってお水を飲むために、1階に降りるのだけども、チョコは階段の柵の下で、毎日目をキラキラさせて、しっぽをぶんぶん降って私を待っている。
毎日毎日変わらない、無償の愛。
ぼぉ~っとしていて、水を飲み終わるときに足元に元気にとびかかるチョコに気づく。
これは、おやつをくださ~いのサインだ。
『おやつ?』と言うと
チョコは、さらに目をキラキラさせてくるくる回り飛び跳ねる。
ジャーキーをもらうと、取られまいと(とらないけどね)どこかに行ってしまう。
毎日毎日、本当にかわいい。
犬と人間は、発する言葉は違えども
そんなルーティンであったり、行動であったり、『単語』であったりで
繋がることができる。
そこから感じる無償の愛でできている。
それは、子供に感じる人もいれば
私のように動物や高齢者に感じる人もいるわけで
好きなもの無償の愛を感じることに力や命を注ぎ込むのが
バーンアウトしても、
再起できる天職を発見できることなのかもしれないと、
この文を書いていて気づく。
言葉があるということは
それはやはり使いようで
凶器になって人を傷つけることもあれば
心を開いている人に、
心から涌き出ることを謳うように話せば、心に伝わる。
まぁ、心で話過ぎて、左脳的な文章とかにはできないのだけども。
これは、私の場合、キーボードに打ち込めば文章化できるけど
先日腱鞘炎で音声入力にしてみたら、一向に言葉が出てこなかった。
おそらく、文章化するというのは、一度脳内で変換して読み手のことを考えているのだろうなと思う。その媒体がPCのキーボードなわけだ。
おもしろい。
おそらく、私の場合インプット右脳型、話す言葉は右脳型、文章としてのアウトプットは左脳型なんだろう。
長い文章が書ける人は、アウトプット左脳型が多いんじゃないかなと思う。
最近は、覚えた知識を左脳型で話すことに違和感を感じる。
自分の言葉に変換して、心から伝えたい。
そんなわけで、以前私のフェイスブックで盛り上がった
あなたは左脳型?右脳型?診断を試してみてくださいね!