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1週間で灘高校に滑り込んだ男の話、公立中高での暮らしを添えて

「4日で修論完成(4日ではない)」と、部分的に同じ話をします。
前半は私の人生譚が中心で、受験に関する話は後半になるにつれ増えます。

バカガキ時代

遊びの方は

実家のホームビデオでは、私の知らない私を見ることができる。
画面に映し出されるのは、幼稚園の入園式で先生の話にまったく耳を貸さずひとりだけウロチョロ動き回る私、帰るよと言う親を無視して公園の大きな遊具で遊び続ける私、1年上の従兄弟の兄ちゃんよりも身体が大きくプロレスごっこで圧倒している肉体派の私。
ホームビデオに映る私は、今のような〝学〟の姿をしておらず、どちらかといえば〝暴力〟の姿をしていました。神童エピソードなんかはなく、〝バカガキ〟でした。

転機が訪れたのは小1の秋、九州最大手の学習塾、英進館から公開テストのお知らせが届いたことでした。小学1年生、テストという概念はわかるものの、まさかそれが九州全体のバトルであることまでは理解していなかったのですが、親の軽い気持ちで受検することに。→国・算 100-100 九州1位(草)

当然、英進館からマークされ、その後も公開テストはすべて受けることになりました。タダだったのかな?ここで塾に通っとけばよかったのですが、多分わたしが「塾通い」というものを重く考えすぎており頑なに首を縦に振らず、結局低学年の間は「チャレンジ」一本で戦い抜きました。

小学校では頭が良いキャラを獲得し、そこそこうまくやれていました。特に勉強をやっていたというわけではなく、宿題のプリントを終わらせたらすこし離れた友達の家にスマブラDXをやりに行ってカービィでストーン祭りの毎日でした。いや、今思い出したけど『かがくる』は毎週読んでました。

これを小2くらいで毎週読めてたのかなりデカい

スマブラDX界隈のみんなといっしょにサッカーを始めて、小学校でもサッカー部に入りましたが、ボールコントロールが上手くなくサッカーIQも低かったので、お団子サッカーしかできずあんまり得意にはなれませんでしたね。〝バカガキ〟だったので運動量だけは稼げて、それを評価されることもありましたが、今でも球技は一般に苦手です。

また、水泳は小学校に入る前から始めていて、土曜日週一回を卒業まで続けました。こちらは同じ小学校の中でも一番泳げるくらいにはなれました。まあ、もっと速い人をたくさん知っている今の私の知識からするとこの回数は少なくて、もったいなかったと思います。
水泳は中学・高校・大学でも続けていて、その間ずっと、普通の人よりはかなり速いけど選手レベルにはまったく刃が立たないというレベルでした。

ここまで遊びとかスポーツばかりですね。勉強の話をしましょう。

勉強の方は

前述のように小学生の6年間ずっと進研ゼミを続けていました。最初のころは届いたその日に全部解き切ってしまうほど勉強が好きだったのですが、学年が上がるにつれて科目数や分量が増え、同時に自分の理解・習得スピードが上がりすぎたせいか、段々と手応えを感じなくなってしまい、途中でサボるようになりました。

そんな空白を埋めてくれたのが、年上のいとこからおさがりで譲ってもらった四谷大塚の「予習シリーズ」です。

これこれぇ!

いとこは実際に塾に通っていましたが、僕はその教材を自習で使わせてもらう形でした。特に算数と理科はしっかり考えさせる問題が多く、やりがいがあってとても楽しかったですね。社会だけは暗記量が多すぎて、親に手伝ってもらうことも多かったのですが、(あのボリュームには今でも驚きます)それでも独学で取り組むには十分な教材でした。

小学生向けの公開模試はほとんど逃さずに受験し、成績上位に名前が載ることもよくありましたが、実際に塾へ通ったのは受験直前の短期だけでした。もともとうちの方針が「塾にはあまり依存しない」という感じだったんです。通学圏内に公立の小中学校が整っていたのも大きく、そもそも中学受験を本格的に考えていなかったのだと思います。

それでも結果的に、全国統一小学生テストでは熊本県で1~2位、そして久留米附設中にも余裕を持って合格できました。しかしこれでも、灘中を受けようという話は一切浮上しませんでした。もしもっと早くから塾で本格的に鍛えていたら、「灘中も視野に入れてみる?」という話があったかもしれません。あるいは、先生が冷静に見て「灘は厳しい」と判断したのかもしれません。

塾なしでこの成績ってどうなんだ
この次の回から熊高同期の文系首席が本気を出し、私が2位に落ちたと聞いている

当時は「久留米附設で力試しができればいいや」と考えていましたし、灘中自体どこか遠い世界の話に感じていました。もし違う道を選んでいたらどうなっていたのか、今でも少し気になりますが、当時は手探り状態だったぶん、あまり深く考えることなく小学校時代を終えてしまったというのが本音ですね。

いじめられっ子時代(公立中)

中学は家の近所の公立中に進学し、ちゃんといじめられてきました。
頭が良すぎてとか言うよりは、シンプルに顔のせいでしょうかね。あとまあ流行りのギャグを知らなければゴシップとは無縁で話も面白くないし、了解可能な理由があっただけマシかもしれません。顔に関してはなんでも、フットボールアワーの岩尾さん(2010年ごろは、岩尾さんはまだ〝そういう枠〟でした。)に似てるとか言われていたらしい。目の前で「ブサイク!」呼ばわりされたり、体育の着替えの合間に学ランに精子かけられてあとから臭いと吊し上げにさせられたりなど、典型的なところは経験してきた気がします。あ、いくとこまでいった本物のヤンキーは意外と僕らに優しい(哀れんでいる?)んですよねこれもあるあるかもしれません。
まあ、心身の問題でふつうに不登校になりかけたけど、中3のクラスがかなり過ごしやすくて踏みとどまれました。

これを避けるために中受、というのは「アリ」だと思います。私だって、なにかのめぐり合わせが悪かったら精神や肉体に致命的なダメージを受けていたかもしれませんし。

ただまあ、残酷なことですが、あなたの一枠で公立に押し込められた人もいるわけで、この、「公立避け」の構造は全体で見るとゼロサムゲーム様であり、勝てば良いものの、敗者は致命的なダメージを負ってしまう恐れがあるという隠された重大な問題があると考えます。
また、「公立避け」をした先で不幸なマッチングが生じる可能性はゼロにできないため、どこまでいっても悪い環境が生じる可能性から完全に逃げ切ることはできません。

環境における不幸なマッチングができるだけ減ると良いのですが、そのためには、「公立避け」という局所最適行動はもちろんですが、「嫌な奴」の絶対数や割合を減らしていくという全体構造に向けた取り組みが行われる必要もあると考えます。道のりは長いかもしれませんが、もしこれが達成されたら、人口問題とかいろいろ問題山積みだけど、日本はもっと良くなるんじゃないかな。

通塾時代(中学)

こんな状況でしたが、中学の部活の水泳は続けられていて、前述の通り選手には敵わんけど一般人レベルだとしっかり速いくらいの実力だったので、小さな大会では個人で入賞したりリレーメンバーになったりするなど、部活では人権がありました。人格崩壊に至らなかった要因としてこれがデカかったのだと思います。これは生涯通用する教訓だと思うのですが、自分の評価軸は複数持っておいたほうが良いです。

とりあえず、中3の夏の大会までは水泳部を続け、そこから高校受験に移行しました。とりあえず英進館のクラス分けテストを受けたら数学満点英語そこそこでTZSクラスになったので、夏期講習から通ってみることにしました。なお、それ以前も1年くらい英進館に通ってはいましたが、公立中学の学習内容のサポートで熊本の四校を目指すみたいなクラスでした。

これ、精鋭かどうかは置いといて環境が良いのは実際にそうだと思います。

小学生のときのように予習シリーズで自習していたとかではなかったため、クラス替え時点で私立高校受験に関係する内容は本当に初見でした。
当時どれくらいの成績だったかというと、現在分詞と過去分詞をフィーリングでしか理解しておらず、関係代名詞がまったく意味不明、といった、英語がちょい苦手な中学生という感じでした。数学はまあ、因数分解の公式が出てきたときに暗記に手間取って数学が苦手になりかけたけどそれ以外はスーイスイといったイメージ通りの数学好きの中学生といった感じです。

これもあるあるだと思うのですが、クラスが上がった直後、周りのTZ生と英語のレベルが違いすぎて、英語の授業後にクラスの外で泣きました(中3 男子)。単語も文法も構文もすべて足りない、周りとは2年半の差がついているという、今振り返っても詰み度合いが高い状況で、勉強に関しては人生で初めての挫折だったんですね。

これと同じことを中坊でやった

ふつうだったら英語ができなさすぎてクラスを下げて熊高には合格してめでたしめでたしで終わりだったのですが、本当に幸運なことに、私には挽回のチャンスが与えられました。

教室の前の廊下で泣いていたら、小学生のときから見ていただいている先生から、ちょうどその夏から帯山本校という市内の別の校舎にもTZクラスが設置されて、そこでは初心者向けに英語の基礎から教えることができるから、教場を移籍してはどうかという選択肢を提示されたのです。私は、この話に乗ることにしました。たまに猛烈に叱られることもありましたが、今の私があるのはこのときの先生のおかげです。書きながら涙が滲んできました。

幸運

かくして、中3の8月からは帯山本校TZクラス第一期生として、自転車で毎日20分の道のりを往復することになりました。

こちらの教場は私にとってかなり着いていきやすい環境・進度で、それまでの負債を順調に返すことができました。
まず、私のレベルにちょうど見合った素晴らしい英語の指導によって、ちゃんと教えてもらったら文法・語法の理論的な事項はスラスラ頭に入ってくることがわかり、私が英語で得点できないことのボトルネックが周囲と比較したときの単語力・暗記例文の欠如であることが明らかになりました。そこで、配布されたVITAL3000や例文集を文字通りボロボロになるまで覚え込み、11月頃にはTZS適正レベルまで英語を伸ばすことができました。

授業がわからなくて泣くレベルから3ヶ月でここまで変われたという体験は、良くも悪くも私の糧となり、その後の人生で私が英語を伸ばすときの戦略やサボるときの口実として残り続けています。

クラスが上がってついていけなくなって泣いているみんな!もしかしたらその挫折は暗記だけで乗り切れるかもしれんから、ちょっと視点を変えてみると良いかも!

英語以外は小学生時代からずっと得意だったので、教材を与えられたら自分でこなせるし、授業内でためになる話があればちゃんと自分のものにできるという感じで、半年間やればやるほど実力を伸ばすことができました。多分社会は全教場で一番できたと思います。灘の科目に入っていないから上位層は手を抜くし、私は覚えるのが特別に得意だったので。

TZ・TZSクラスには週テストという2週間に一回九州全土の教場で同じテストを受けて教場ごとに平均点を競い合うイベントがあるのですが、帯山本校にはTZSが1人しかいなかったので(残りはみんなTZ)、私が週テストで満点を取るようになる10月くらいからは週テストの平均点がずっと1位だったみたいです。

ただ、ここまで順調でも、外部模試の駿台中学生テストにはさすがに間に合わず(この成績表をずっと探しているのに見つからない)、英語の偏差値は30とかだったと思います。灘高校も絶対受からない判定でしたし、久留米附設も半分くらいの判定だったようなおぼろげな記憶があります。

年末合宿でTZNクラスという存在を知りました。私はTZN2とTZS1を行き来していたような本当におぼろげな記憶があります。
熊本から引率で来てくれた社会の先生と仲が良くて、イランの産業のデータでピスタチオの話題が出てきて、ピスタチオがなにかを知らない私を宿の売店まで連行してピスタチオとはなにかを教えてくれた記憶だけが残っているのですが、ピスタチオがなにかは未だにわかっていません。(論証集〝まんまる〟エピソード)

灘高受験の実際

前哨戦は問題なく全勝です(弘学館・青雲・早稲田佐賀・附設)。
ラ・サールは附設と同日だったので受けていませんが、今考えてみるとラ・サールに進学してみても面白かったと思っています。

12月ごろに附設は余裕で受かるだろうという実力になった段階で、塾の先生から灘高校の受験を勧められ、とりあえず出願しておきました。しかし、通常のTZクラスは久留米附設受験が終わったら熊高受験クラスに併合されるため、灘高受験までの約2週間は熊本本館に戻ることになりました。涙の別れと、決意の帰還です。

ところで、ここまで塾の話ばかりでしたが、当然、私は中学生であり、昼間は中学校に通っていました。3年のクラスに恵まれたこともあり普通に通えていたのですが、逆に、勉強は塾で課されたものをやる余裕しかありませんでした。中学の内容は良いのですが、困ったことに「灘高校の過去問」はカリキュラムになく、久留米附設受験後に灘対策の授業が始まるまで見たことがありませんでした。そもそも、灘の過去問が店に売ってることすら大学生になって福岡に出てから知ったくらいだし。
みんなこの辺どう?コメント欄とかで教えて!

さすがに格上校だったので、ちゃんと勉強したいと思い、以下のような申し出を。

唐突に「校長」(偉い人)とか出てくるし嘘松っぽいのですが、事実ですねこれ。(てかこのnote記事全体を通していくつか嘘松っぽいエピソードありますが、記憶の混濁によるでっちあげはあるかもしれませんが概ね事実です。)

この対応に関しては、親が学校に掛け合った可能性はあります。

タイトルにもある通り、またこちらのツイートにもある通り、1週間中学を休んでコタツでぬくぬく過去問をやってたらめでたく合格できました。数学で少しミスって、国語で上振れを引いて、直前期の過去問周回のおかげで英語が耐えて、理科はそんなもんみたいな出来で、最低点+1で合格でした。

なんか英進館がめちゃくちゃ弱い年だったみたいで、私の前後の年は20人くらい合格出してて全国一位だったのに、私の年だけ合格者9人でした。少ないから全員名前と出身を覚えてるし、みなさん優秀な方々だったと思います。灘には行かずに理三に行った方もいますね。

合格を告げられた電話口でパルキアになりました。
私が一番強かったの冗談抜きでこのとき

灘高滑り込み勢の〝公立〟高校時代

いや、でもギリギリ合格は渋くないか?ということで、熊本高校に進学しました。たまに後悔しています。

灘高英語55点から特に勉強せずに受けた高1の6月センター試験本番レベル模試は160/200くらいだったと思います。高1の同日で180/200になりその後3年間変わらず。中3で泣きを見て集中して学習したおかげか、高校の中では最初から英語ができる方で特に抜かれることもなかったので、高校時代はあまり英語の勉強はしていませんでした。そのせいで高3で再び英語が穴になり…。
東大英語は高3秋以降に英語に没頭することで40/120(模試) → 75/120(本番)まで付け焼き刃で伸ばすことはできましたが、東大英語90とかは夢物語であり、英語に関しては継続してきた人たちには敵いませんね。これは受験に関わる・英語に関わるすべての人に向けての教訓だと思います。

数学は東進の速習講座でGWで数1Aが一周終わりましたが、数2Bはいつやったか覚えていません。多分夏休みくらいに終わってそう。東進では2ヶ月毎にセンター試験本番レベル模試があり、1A2Bの基礎の実践的なアウトプットの場が設けられるので、1A2Bは高1時点で基礎をしっかりと定着できていたと思います。
一方で、数3は東進の学年が切り替わった10月に始めたと思いますが、今考えるとさすがに消化不良だったみたいで、高3で長岡恭史先生の東大対策理系数学の授業を受けたり高校で「解法の探求 微積分」の添削指導を受けるまでは基本事項をマスターできていなかったと思います。非一貫組はここに注意すると良いかもしれません。
東大模試では毎回2~3完 + αで偏差値70には少し届かないくらいの、まあ得意と言えないこともないくらいのレベルでしたが、東大本番では人生でやったことないくらいの大雪崩が連発し、取ったことない点数に(38/120)。雑魚狩りは得意だけど大一番で緊張すると必ず失敗しがちなのかもしれません。

理科に関しては、灘入試でも点数自体は取れていたので適性はあり、実際に大学受験の得意科目にはなったのですが、高校受験で学習した内容は直接的に大学受験を助けなかったと思います。これ僕だけでしょうか。高校受験最難関理科をもってしても、高校入学後の理科は謙虚に学び直さなければ習得が難しかったと思います。

東進の最高レベルの物理と化学の授業を受けていましたが、苑田先生の物理は私には難しかったと思います。今考えると、特に高校レベルを超えた部分の数学でつまずいて、それをリカバーできていなかった感じがあります。私には名問の森周回が一番向いていました。まあ、本番では数学に引き続き力学でもフリーズして失敗してしまいましたが…(東大37/60)
鎌田先生の化学はちょうどよかったですね。化学は高2から始めましたが、高2は東進とリードα、高3で重要問題集と新演習を終わらせて無事に得意科目にできました。こちらは、シンプルに2016年度の有機化学の難易度が鬼すぎて得点が伸びませんでした(東大43/60)

灘高国語で高得点が取れたのはマグレです。大学受験の国語は、別に苦手でも得意でもないという感じでしたが、東大国語の点数を見ると、できない方だったのだと思います(35/80)

部活は水球部に入って(高2でしばらくお休みする時期もありましたが)、春夏は週6でわけわからんくらい重い運動習慣がありました。秋冬は筋トレ中心になって時間的負担は緩和されますが、う〜む。

難関高校蹴り勢、公立高校に来たということは、その高校の適性レベルの勉強は余裕でついていけると思うので、部活をやる余裕はあると思いますし、やっていいと思います。上手く行けば高校生活の充実度を高めることができるし、生涯を通した友人や強固なアイデンティティを獲得することができるかもしれませんよ。あと、理三に届かなかったときの言い訳にも使えます!いやいや私は勉強がしたいという主張も考えられますが、2点考える必要があります。
① じゃあ私立に行っておけばよかったという選ばなかった未来は〝消えない〟
② あなたが都内・大阪をはじめとした都会住みでないならば、そのレベルの人間が時間を投下しただけのリターンを得られる確度が高くない。

①、あまり好きな考え方ではないのですが、せっかく私立の進学校ではなく公立の進学校を選んだのであれば、どちらかといえば公立高校が得意としている〝青春〟に順張りして身を捧げるのが楽だと思うんです。そこで逆張りしようとするなら、そっちが得意な私立高校に進んでおくほうが得策であり、一貫性がありません。ただ、ここは未だに私も悩んでいるポイントなので、選択によって生じる不安を完全に払拭することは難しいかもしれません。

② それでも、都内や大阪であれば、鉄緑会に通うことができたり、福岡市などでも、大手予備校の現役生向けのハイレベルなコースが充実していたりするので、公立高校に在籍していながら十分に充実した学習支援を受けられる可能性があります。この場合は、勉強に多くを懸けるという選択もアリだと思います。ただ、私みたいに中途半端な都市在住であれば、価値のある情報を集めにいける主体性と情報の価値を客観的に判断できるメタ認知能力などを兼ね備えていない限り、勉強だけに賭けるのはハイリスクであると思います。

私は灘高合格と大手を振って理三を志望してみるものの、能力的、環境的に現実的なラインとして理科二類に志望を落として合格を頂き、今は九大医学部に在籍(奇しくも、英進館の筒井社長と似たような進路を歩んでいますね)しています。ここまでの私の境遇を見て、ここくらいが妥当な落とし所なのでしょうか。

おわりに

中学受験・高校受験のシーズンで、受験結果に関する一喜一憂、進学先に関する不安等の様々な感情が錯綜している時期だと思います。もし失敗して望んでいない環境に追いやられてしまっても、潰れずに努力を続けられれば、いつの日か在るべきところに返り咲くことはできます。潰れてしまわないことが大切です。大体のことは時が解決してくれます。まずは、一生懸命、周りの力を借りながら、生きましょう。

灘高受験生の人たちへ、過去問やろう‼️
あと、蹴るつもりで受けるんじゃなくて受かったら進学を前向きに考えてみよう‼️

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