ありふれた日に、想う
もう、長いこと新聞をとっていないので最近のことは知らないが、今も元日にはたくさんのチラシが折り込まれているのだろうか。
子どもの頃、朝起きて届いた元日の朝刊にはこぼれ落ちそうなほどのチラシ束が挟み込まれていた。変わり映えのしないテレビに飽きた僕は、母が灯油ストーブの上で炙ってくれたあんころ餅や干し芋を頬張りながら、お目当てのおもちゃが載ったチラシを表から裏へと舐めるように読み、もらったばかりのお年玉の使い道を考えていた。
中学生になれば関心はおもちゃから洋服へと移り変わっていく。スマホもSNSもない時代、憧れのスポーツウェアやジーンズを着こなすスラリとしたモデルが立ち並ぶ新年の折り込みチラシはニキビ面の男子にとって、拙いおしゃれのお手本でもあった。
一桁増えたお年玉で初めての福袋を買いに行こうかどうしようかと迷っているうちに三が日は過ぎ、正月休みも終わる。そして学校が始まればそんな福袋が欲しかったことなど、いつの間にか忘れているのだ。
こたつに足を突っ込み、無為に過ごすこの数日間を何回も、何回も繰り返して僕は大人になっていった。いつしか故郷を離れ、時代も移り変わって、元日のチラシの束をのんびりと眺めることも、みかんを何段まで積み上げられるか弟と競争することも、おせちの仕度で忙しく立ち座りする母と夕方から呑み始めてすっかり酔っぱらった父との毎年の口喧嘩も。
たわいもないことを思い出しては、そんな日がもう決して戻ってはこないことをあらためて思い知る。狂おしい記憶の中に浮かぶ風景はそんなありふれた1日なのである。
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