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「真夜中の煙がきれいで」(ノンフィクション小説)2,812 文字


  兄の親友が自ら命を絶った。

 自分は自分で過労のために休職中だった。

 自分は真っ先に自分の代わりに死んだと思った。それくらい自分も追い込まれていた。

 兄の親友は時々、電車で顔を合わせ、優しく声をかけてくれた。そんな兄の親友が自ら命を絶った。葬儀の日、自分は泣き崩れ立っていられなかった。

 自分が「死にたい」と思うと誰か死ぬ。

 高校生の時もそうだった。そう思うと、自分は生かされていると強く思うようになった。

 時はリーマンショック、世界中が不景気にさらされていた。

 兄の親友はパワハラを受けていたと噂が流れた。地元の企業だ。自分は「あの企業は絶対に許さない」と思った。

 翻って自分だ。自分はなぜ休職していたのか。それは統合失調症を隠して就職したにもかかわらず大きな仕事を任されたからだ。

 現場は、新しく建設される清掃工場と併設される最新式の総合水泳場。完成前の引き渡し清掃と完成後の日常清掃を取り仕切る主任を任された。

仕事は朝7:00前~帰りは0:00を回ることもしばしば。自分の中でこの会社での最後の仕事と腹をくくっていた。休みも薬をもらうために一日だけ抜けた記憶はあるが、一か月半近く休んだ記憶がない。主任といえども現場の仕事をしながらの主任。マネジメントもクソもない。

 しかし最新式の総合水泳場。全日本の大会が開ける規模のプールを有する。仕事を受けた当初、自分は高揚感に包まれていた。

 なにせスピードが命だと思っていた。当時はLINEもない。電話も3回コールして出なかったら切っていた。

 パートのおばちゃんたちにも発破をかけていた。

 「ここは日本一のプールです。そのためには日本一の清掃が必要です。あなたたちには日本一になってもらいます。」

そのためには自分自身も追い込んだ。そして潰れた。眠れなくなった。全く。自分をどう追いこんだかは、ほとんど記憶がない。前述のとおり休みなく朝から夜中まで働いた。なんて生産性の悪い働き方だろう。たぶん「躁状態」だったのだろう。

一か月半でガソリンが切れ、精神科に行き、診断書を書いてもらい、休職した。

 それが2月の半ばだったと記憶している。

真夜中に眠れずタバコを吸いながら

「煙がきれいだなあ」

とボーっとしてばかりだった。

それから一か月後の3月の半ば、兄の親友が自ら命を絶った。その知らせを聞いて

「お前は生きろ」

と言われた気がした。

しかし、自分は更に眠れなくなり、真夜中にタバコをふかしていた。その煙がまるで兄の親友の亡霊のように見えた。

自分は生きるために会社を辞めた。

そして初めて福祉の力を借りた。

 最初、保健所に電話し、区役所に回され、就労支援センターなるものを紹介された。そこで出会ったのが円堂さんという女性だった。

 自分は今までガラスや床など無機質なものを相手に仕事してきたことを説明し、次は農業など有機的な仕事をしたいと畳みかけるように説明した。まだ躁が抜けていなかったのだろう。円堂さんは一言

「ありますよ」

と答えた。よくよく聞いてみると、ここではないが同じ系列で農業と福祉の連携の取り組み「農福連携」というものがあるという説明を受けた。B型就労移行支援事業所というものだそうだ。

自分が福祉の力を借りるとは夢にも思わなかったが、兄の親友の死を無駄にしないためには自分はどんな手を使っても生きると決めた。それが福祉であろうと。しかしまだ揺れていた。

 B型就労移行支援事業所(通称「作業所」)での農作業はじゃがいも掘りやミニトマトの片づけなど簡単な作業だったが、自分のブランクとダメージは自分の想像以上だった。

「働けない」

ことごとく思い知らされた。早く実戦に戻りたいのに、身体も気持ちも動かない。そのため作業所は月水金の午前中だけからとなった。作業所では和久田さんという女性がとてもよく面倒を見てくれた。

 そして自分は作業所になじめなかった。休憩中もゲームやアニメの話。自分にはついて行けなかった。

 自分はもっと現実が欲しかった。

 それを察してだろう、9月のとある日に農家に施設外実習に行ってみないかと和久田さんに誘われた。その農家は主にチンゲン菜の水耕栽培。作業所より実戦に近い。自分は

「これこれ」

と思っていた。

しかし作業所から支払われるお金はとても微々たるもの。失業保険もそんなに長くない。

自分の中には

「経済的安定は精神的安定に繋がる」

という芯があった。そのため障害年金を申請しようか悩んでいた。

精神障害は他の障害と違って、

「自ら障害者になることを選択する」

他の障害は医者が決めたり、IQが決めたりする。しかし精神障害は

「私は障害者になりたい」

と申告しなければならない。

ここで自分は、もがき苦しんだ。

 一度、障害者になったら二度と健常者に戻れないことは自分にも容易に分かっていた。

ここに障害者に対する内なる偏見があった。

和久田さんに相談しても

「あなたの人生だから、あなたが決めた方がいい」

とだけで、冷たいと思った。しかし自分は自分の人生を自分で決めてこなかった証拠でもある。

それでも誰かに背中を押してほしかった。

自分は大学のゼミの杉田先生(障害学が専門)にメールした。

「障害者雇用ってアリですか?」

「ありだよ」

と返ってきた。今までもがき苦しんでいたものがスッと降りていく感じがした。

 自分は心の中で「障害者になる」という選択をしない限り、健常者のふりをしている限り、もう一つの選択肢である「障害者になる」は一生消えないと気づいた。障害者になってしまえば、健常者のふりをするという選択肢は消える。自分は選択肢を消し、悩みを消したかった。それは悩むこと自体が苦しくて、その苦しみから解放されたかったからだ。だから「障害者になる」という選択をした。

 自分はこの選択をするために何度も海へ足を運んだ。秋の海。誰もいない。自問自答。

寄せては返す波の音。何か一つの答えを出すにはとてもちょうどよかった気がする。

のちに杉田先生に言われた

「俺が障害者雇用を否定するわけがないやろ。

お前も誰かに背中を押してほしかったんやな。」

そして自分は運よく特例子会社を作る準備をしていた今田さんに出会う。

 障害者雇用のためには障害者手帳が必要だ。

自分は障害者手帳と障害者年金を申請した。

 数か月後、障害者手帳は交付された。

 自分は「障害者」になった。

自らの選択で「障害者」になった。

なってしまったというところが正直な気持ちだ。

気持ちは複雑だった。この手帳は仕事以外では使うことはないだろうとも思っていた。そこにはまだ内なる偏見が残っていた。

しかし新しい仕事が待っていた。

心は希望で満ち溢れていた。特例子会社での仕事が待っていたからだ。

真夜中にタバコの煙を眺めていた日々から1年が経っていた。

 

障害者手帳の交付日は

 

平成22年2月17日。

 

この障害者手帳を自分は今も持っている。

 

 

登場人物は全て仮名です。

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小松亜津人@統合失調症
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