そして、ふたたびの『病床六尺』
昨日もまた調子に乗りすぎてたのだろう。
肉体疲労と睡眠の浅さ、また軽い熱中症のような症状で、ダウン。
布団の上で、経口補水液を飲みながら、ひたすらじっとしている。体は疲れているのに、眠れない。神経が高ぶってるからかな。
経口補水液は、わかりやすいリトマス紙で、体調が悪いときはまあまあ飲めて、美味しいとすら思う。体調が普通のときは、「なんだ、こりゃ?」って味がする。
今日はおいしい。
今日は満月。
満月の日に、いつもダウンしている因縁?。
デトックスだろうか。
ちなみに、写真は、広島の尾道文学館の、林芙美子の展示。たぶん自筆の色紙。
「はなのいのちは みじかくて
くるしきことのみ おおかりき」
有名な言葉。放浪記より。
久しぶりに病床六尺の文庫を引っ張り出して、寝転がって読む。
こんな言葉があった。
「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々と分かつて来るやうな気がする。」
そして、その横に、私のこんな書き込み。
「造化にしたがひ造化にかへれとなり」(松尾芭蕉)。
もう、俳論の世界だよねーこれは。詩論とか。
日本文化の精神、観念の話。道とか。
俳句道ってのは、なかったろうけどね。聞いたことないなぁ。
子規は韻文の近代化を目指してたから、「道」なんてって、思ったろうしね。
でも、お茶の精神にもすこし似通っているものがある。
子規の言説は、レオナルド・ダ・ヴィンチ展をみたときにも感じた、天才的視線の鋭さ、明快さ、解剖学のような知的分析に近い。科学的で感覚的。
二十代から三十代にかけて、
時間と情熱をそそいで、子規に迫ったけど、
いまだにわからないことが多い。
大きすぎる。
だから、余計に惹かれる。
一生つきあう、作家の一人。