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真理すらもないという考え

真理すらもないという考え

私たちが人生において追い求めるものの一つに「真理」があります。真理とは、普遍的で絶対的なものであり、それを見つけることが、人生の目的や意味と考えられることが多いです。しかし、非二元の視点から見ると、この「真理」ですら、最終的には幻想に過ぎないという考え方があります。この考えは非常にラディカルで、特に日常的な考え方や伝統的な宗教、哲学の概念と衝突するものですが、深く考えてみると、多くの可能性を秘めています。

まず、真理とは何かを問うところから始めましょう。多くの場合、私たちは真理を「絶対的な答え」として捉えています。宇宙の仕組みや、人生の目的、存在の本質についての疑問に対する究極の答え。これは哲学や宗教、科学によって追い求められてきました。しかし、問題はその「真理」が、常に誰かの視点や解釈に依存していることです。私たちが真理と呼ぶものは、実は人間の言語、思考、文化の枠組みによって形作られているに過ぎないかもしれません。

言葉という道具を使って「真理」を表現しようとする瞬間、それは既に限定され、歪められます。言葉は抽象的なシンボルであり、現実そのものを完全に伝えることはできません。したがって、どれだけ正確に言葉を使っても、それが指し示す真実は常に曖昧であり、完全には捉えられないのです。このようにして、言語や思考が真理を覆い隠し、それを固定化する道具となってしまいます。

さらに、非二元の観点では、「真理」そのものが二元性の産物であると見なされます。つまり、真理があるということは、それと対立する「偽り」もあるという前提が必要です。これが二元的な考え方であり、私たちは常にこの対立軸に縛られています。しかし、非二元の視点から見ると、すべての対立は幻想であり、そこには「真理」と「偽り」という対立すら存在しないのです。

このようにして、真理すらも存在しないという結論に至るわけです。すべてはただ「あるがまま」に存在しているだけであり、それに対して意味や答えを付与するのは私たちの心や思考に過ぎません。真理を求めようとする欲望は、ある種の固定観念や確実性への執着に基づいています。私たちは不確実性や無意味さを恐れ、それを回避するために「真理」という概念を作り上げているのです。

では、「真理すらもない」とはどういうことなのでしょうか?それは、すべての現象や存在が常に変化し、流動的であることを受け入れることです。固定された「真理」や「答え」は存在せず、ただ今この瞬間に起こっていることがすべてなのです。私たちがそれを観察し、体験し、それに対して意味を付け加えることが、いわば一時的な真理を生み出しているに過ぎません。

この視点は、一見するとニヒリズムのように感じられるかもしれませんが、実際には逆です。真理すらもないという考えは、すべてを解放する可能性を秘めています。固定された答えや目的を追い求めるのではなく、常に新しい視点や体験を受け入れる姿勢を促します。真理に縛られることなく、変化や不確実性を楽しむことができるのです。

この考え方は、禅やタオイズムなどの東洋哲学にも共通しています。禅では、悟りや真理を追い求めること自体が執着と見なされます。「真理」を捨て、ただ「今ここ」に存在することが悟りであり、真理を超えた境地に達するための道なのです。また、タオイズムでは、宇宙の本質は説明不可能であり、言葉や理論で捉えることはできないとされます。そのため、タオを理解するためには、「知識」や「真理」を超えた感覚を持つことが求められます。

真理が存在しないという考えは、人生において自由と軽やかさをもたらします。何かに固執することなく、すべての出来事や現象をありのままに受け入れることができるようになるからです。私たちは、真理を求めて苦しむのではなく、ただ今この瞬間を体験し、楽しむことができるのです。それが、最終的に「真理すらもない」という理解に至ったときに得られる本当の解放感かもしれません。

結論として、「真理すらもない」という考えは、私たちが抱く固定された信念や答えを手放すことを促します。絶対的な真理は存在せず、すべては流動的であり、変化し続ける。それを受け入れることで、私たちはより自由で柔軟な生き方を選ぶことができるのです。

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