かみ合う場所
長い休みを取り、実家に帰省した。
実家は4年ほど前に隣の市へ引っ越した。
地元からはほんの少しだけ離れた。
帰ってきた感覚も少しだけズレる。
1ヶ月見惚れていたネイルを
いよいよオフしてもらうため、地元の近くのサロンを訪れた。
可愛さよりも爪が長くなったストレスが上回ってしまった。
保育園、小中高、全て徒歩5分以内で過ごしてきた私。
ネイルサロンは、まさに通った保育園の近くであった。
斜め向いには、ブランコのみの公園、立派なお墓がある。
子供の頃よく遊んでいた。
他人様のお墓だったが、自分たちが遊ぶことで、寂しくないいんじゃないかと思い、気兼ねなくお墓の階段まで登ったり、ジャンプしたりしていた。(ごめんなさい。)
ついでに昔よく過ごした場所、高校の裏、元あった実家の場所、集会所、コミュニティーセンターなど自転車で回ってみた。
この数年の間にも、この付近を通ることはあったが、
やはり車よりも自転車・徒歩の方が直に土地と接しているようで、感じるものがたくさんあった。
「ここでよく遊んだな」
「この道、帰り道でよく通ったんだよな」
「庭みたいなもんだ、ほら、ここの道繋がってるの知ってる」
「新しい家、増えてるな。昔の景色と違う。」
「ここは変わらないんだ、良かった」
「保育園の時計なんで止まってるんだろう」
「送り迎えしてもらった駐車場、変わらんなあ。今日も停まってる。」
「ここでよく勉強したなあ」
「ここ田んぼだったよな〜、お玉杓子いたんだよな」
回転寿司のように次から次に、その場所の一番強く記憶に残る思い出が
脳内に流れてくる。
以前までは地元に帰ると、
「ああ、戻りたい」と思うことが多かった。
でも今度は違った。
いろんな思い出もあるけれど、少しずつ変わっていく街。
そのままの風景なんてない。
面影はあるけど、何が建っていたのか分からない場所もある。
住んでるわけではないんだけれど、変わってほしくない。
でもそれはできない。
学習する時によく利用していたコミュニティーセンターで、
読書をしてみた。
貸切だったけれど、集中できず。
子供達が体育館や、ロビーにいる。
「遊ぶのにお金いるんだって」「えー、来た意味ないじゃん」「他のところ行こう」と、話す子どもたち。
バスケの試合をしていたり、お母さんに絵本を読んでもらおうとしている子、ママさんバレーの集まり。
「ああ、もう私の場所ではないのか」
そう、思った。
ただ単に集中できなかっただけかもしれないし、
普段から利用しているわけではないからかもしれない。
でも、何か自分の中で歯車の微妙なズレを感じた。
懐かしいと感じるだけでちょうどいいのかもしれない。
もう次へ行きなさい、ここは帰るところじゃないよ
そう言われているような感覚で
寂しい気持ちをあとに立ち去った。
次帰るのはいつだろうか。その時はまた違った感覚になるのだろうか。
弱っている時は帰りたいと思うし、一歩踏み出そうとしている時は、違うよって感じる。今は後者なのかも。