見出し画像

読書メモ|ゼロからの『資本論』|斎藤 幸平

 労働は、まずもって、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち、人間が自然との物質代謝を自らの行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。(192)
 その際、もう一つ重要なことがあります。人間と自然との物質代謝は循環的で、一方通行で終わるものではないということです。自然に還らないゴミを大量に出し続ければ、例えばマイクロプラスチックを食べた魚が私たちの食卓に戻ってきます。また、化石燃料の大量消費による二酸化炭素の排出は気候変動を引き起こし、私たちの文明を脅かすようになるでしょう。
 1番わかりやすのは「水」でしょう。水道水の水質は変わっていないのに水道水を飲まないひとが出てきます。もともと気兼ねなく飲んでいた水を、お金を払って飲むようになる。私たちの感性や欲求が商品社会のなかでは変わっていくわけです。結果、企業は儲かる一方、私たちのお財布の負担は増えていきます。
 映画「マルクス・エンゲルス」の冒頭シーンでも印象的に描かれていますが、地面に落ちた枝さえも地主が私有財産として囲いこみ「薪が欲しかったら金をだして買え」と迫って容赦なく暴力をふるうわけです。それまでは生活に必要な木の枝は誰が拾ってもいいものだったのに、資本主義による私物化や商品化がついにそこまで入ってきたことは、マルクスに大きな衝撃を与えました。(略)かつては誰もがアクセスできるコモン(共有財産)だった「富」が資本によって独占され、「商品」になる。(略)人々を締め出して森を独占したとしても、木を伐採し製材しなければ「商品」になりません。「商品」にするためには「労働」が必要です。この労働を担ってくれるのが森から締め出され、薪を買うためにお金を必要としている人々です。コモンの囲い込みは、資本にとって二重の意味で好都合だったのです。
 貨幣には「なんでも買える」特別な力があるため、たくさん持つひとたちはどんどん有利になっていきます。大きな資産を株で運用すればボロ儲けできるし、ライバル企業になりそうな会社は小さいうちに買ってしまえばいい。たくさん献金すれば政治家もいうことを聞いてくれて、有利な税制や法律をつくってくれるかもしれません。
 「儲かるモノ」と「必要なモノ」は必ずしも一致しません。空気のようにそれなしで人間が生きることができない「使用価値」の大きなものが無料である一方で、ダイヤモンドのように「使用価値」の小さなものが非常に高価である。空気は人間の労働なしに存在するので「価値」はありません。ダイヤモンドの採掘には多くの労働が投入されるので「価値」は大きくなるのです。「価値」は人間の五感では捉えることができません。マルクスも「まぼろしのような」(52)性質だと言っています。(略)「使用価値」のために物をつくっていた時代は、人間が「物をつかっていた」わけですが、「価値」のためにモノをつくる資本主義のもとでは逆転し、人間がモノに支配されるようになる。この現象をマルクスは「物象化」と呼びます。(略)人間が経済をまわすのではなく、経済を回すこと自体が自己目的化して、人間は資本主義の歯車としてしか生きられなくなっている。これこそがマルクスが指摘した「物象化」の問題点なのです。
 民営化の実態は特定企業による権利独占であり現代版の「囲い込み」なのです。
 マルクスの「資本論」の目的は、資本主義社会に内在する矛盾を明らかにすることで、資本主義とは別の、よりよい社会を生み出す近道を示すことでした。

第1章 商品に振り回される私たち

 市場社会ではお金をもっているひとの方が優位にたつことができます。必要かどうかではなく、売れそうかどうかでモノを作るようになってしまうのです。
 金儲けの主軸となるのは「使用価値」ではなく「価値」です。資本が大きくなるとともに、「価値」は力を増していき、ついには自立した「主体」になってますます人間を振り回すようになっていきます。(略)たとえ一生かかっても使いきれないほど儲けたとしても「もっと!」と思ってしまう。「それだから、資本の運動には限度がない」(167)とマルクスはいうのです。
 労働から生み出された商品の価値から労働者の日給を引いた額が資本家の儲けとなります。「GーWーG'」G’とは最初のお金に儲けが上乗せされた状態を示します。マルクスはこれを資本の一般的定式と呼びました。
 資本主義社会において労働者は二重の意味で「自由」だとマルクスは言います。ひとつは奴隷のように繋がれているわけではなく、好きな場所で好きな仕事につくことができるのです。しかし、同時に生産手段からも「自由(フリー)」になってしまいました。生きていくために必要なものを生産する手立てを持たないということを意味します。(略)人々はもう商品を買うしかありません。(略)”労働者は労働力に対する処分権はもつが、労働に対する処分権など全然持っていない。「内田義彦_資本論の世界_78頁」”
 労働日の制限は、それなにしには一切の解放の試みが失敗に終わらざるをえない先決条件であると、我々は宣言する(319)賃上げされても長時間労働が解消されなければ、意味がないということです。(略)私たちはプライベートな時間に楽しみとしてフェイスブックを使っていると思っていますが、彼らが必要としている「データ」をGAFAのために生産し、せっせと働いているともいえます。しかもタダで!
 世界には労働時間を短縮しようという動きも出てきています。一例が、フィンランド首相が自身の任期中の目標とすることを表明した「週休3日、1日6時間勤務」です。アイスランドでは週休3日制の社会実験が行われ、生産性は下がらなかったというデータも得られています。イギリスでも週休3日制の実験が始まっています。ベルギーでは、残りの日に長く働くことを条件に、労働者は週休3日を選べるようになってます。これらはテレワークなどの拡大とともにますます広がっていくでしょう。

第2章 なぜ過労死はなくならないのか

 ケインズは資本主義が発展していけば、労働時間は短くなると予言しました。その後100年近く経って、マルクスやケインズが想像もできなかったほど、技術革新が起きました。生産力があがって、飛躍的な経済成長が起きたのです。世界の総GDPは1800年くらいまでほぼ平坦でしたが、第二次世界大戦以降はグラフが垂直方法に急進しています。ケインズが予言したように先進国ではもはやさほど働かなくても暮らせそうなものですが、現実はまったくそのようになっていません。
 生産力が上がっていけば、これまで10,000円はもらわないと暮らせなかったのが、ファストファッションやファストフードのおかげで、例えば8,000円(4時間分の労働)でも以前と同じような暮らしができるようになる。すると資本家は支払う日給を8,000円に下げることができます。具体的には非正規雇用などを増やしてコストカットができるようになるのです。同じ時給で残業してもらう「絶対的剰余価値」の生産では、労働日の絶対的な長さが延長されることで生産される価値が増大しましたが、生産性の向上による「相対的剰余価値」の生産では、労働日の長さは変わらないので、生産される価値の合計は同じままです。けれども労働力の価値が下がることで儲けが増えるというカラクリだからです。
 資本主義のもとで生産力が高まると、その過程で構想と実行が、あるいは精神的労働と肉体的労働が分離されるとマルクスは言います。労働者は「実行」のみを担うことになるというわけです。(略)生産工程を細分化して労働者たちに分業させ画一的な工程にしていくことで、生産効率は上がって、単純作業が中心なので、人員を増やし規模を拡大できるでしょう。分業というシステムに組み込まれることで、何かを作る生産能力さえも失っていくとマルクスは喝破しています。何年働いても単純な作業しかできない労働者は、分業システムのなかでしか働けません。単純作業なので自分の代わりになるひとはたくさんいます労働が苦痛になる疎外の原因なのです。(略)自らの手で何かを生み出す喜びも、やりがいや達成感、充実感もない、要するに疎外されているということです。無内容なのでいつでもだれとでも置き換え可能となり、労働者の力はますます弱めされたのでした。経営者の意向にそってしか労働を実現できない状態をマルクスは「資本の専制」と呼んでいます。
 要するに無力な消費者は、市場が提供する商品やサービスを選択することしかできません。お金があってもメニューにないものは何もできない無力な存在なわけです。(略)ドイツ社会はもちろん資本主義ですが、市民に自分でつくったり、修理したりする力が備わっていることを感じる場面にしばしば遭遇しました。それは古い自転車や家具を修理しながら使う「エコな」社会です。
 労働者に大きな犠牲を強いる資本のジャガノートはさらにスケールアップしながら今も回り続けています。現代の労働者は単に勤勉なだけでなく「経営者目線で考えて自ら動け」と発破をかけられたりしますが、労働者が資本家目線で自発的に動いてくれれば、資本家にとってこんなにありがたいことはないのです。
 多くの仕事は依然としてロボットに任せることはできません。人間を使う方が安いのでロボットの脅威に怯える心配はありません。問題は「人間にしかできない仕事」しかも社会的に重要な仕事に従事するエッセンシャルワーカーたちに長時間労働と低賃金という負荷がかけられているという現実です。同時に、社会的に重要と思われない仕事、本人でさえ意味がないと感じている高級取りの仕事、デビットグレーバーは、そんな「ブルシットジョブ」が広告業やコンサルタント業を中心に近年急速に増えていると指摘しています。無駄な会議、書類作成、くだらないキャッチコピー作りやマナー研修、どれもブルシットジョブです。資本主義が大量のブルシットジョブを作り出しているとグレーバーはいうのです。無益で高給なブルシットジョブがはびこる一方で、社会にとって大切なエッセンシャルワーカーが劣悪な労働条件を強いられている。これが資本主義が爛熟した現代社会の実態です。やりがいのない無意味な労働も、過酷な長時間労働も、人生を貧しくするという意味では同じです。
 マルクスが思い描く将来社会の労働者とは、「全面的に発達した個人」です。構想と実行のどちらにおいても自らの力を発揮し。ひとりひとりが自身の労働力という「富」を活かしながら社会全体の「富」を豊かにしていく。お互いに支え合いつつ自律的に生きていくための能力や感性を取り戻すことができる。これこそが疎外の克服だとマルクスは考えたのです。

第3章 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む

 グルーバル資本主義の暴走が引き起こした環境破壊は極めて深刻な状況にあります。(略)地球全体を掘りつくして商売の道具にしてしまう資本主義のツケを払わされるのは、未来を担う若い世代や発展途上国で暮らす貧しい人々です。プライベートジェットや豪華クルーズ船を乗り回す超富裕層は、自らが原因でありながら、責任を果たしていないという大きな不平等が存在します。
 同じ盲目的な掠奪欲が、一方の場合に土地を疲弊させ、他方の場合には国民の生命力を、その根幹から襲った(253)土地の疲弊と生命力の消耗は同源であると指摘しています。(略)マルクスは19世紀の土壌疲弊の問題を中心に取り上げていますが、今日でも化石燃料やレアメタルの採掘、アマゾンの熱帯雨林の破壊というかたちで自然からの掠奪は形を変えて続いています。
 人間と自然との物質代謝は、本来、円を描くように営まれる循環的な過程です。しかし、資本の運動は常に一方的。労働者や自然から一方的に奪い、コストも一方的に押し付けようとします。(略)コスパにうるさい私たちは、ステーキ肉やパソコンの値札は必死にみていますが、本当のコストをみていません。どうやってその牛肉が作られたか、その過程でどのくらいの音質効果ガスが排出されたか、なんて関心を持たないわけです。
 資本主義のもとでは、地球環境を破壊することなしに、もはや生産力を発展させることができません。私的所有と利潤追求のもとで掠奪を繰り返すシステムでは、だれのものでもない地球環境を、持続可能な形で維持できなくなっているのです。修復不可能な亀裂が文明を破壊してしまう前に、別の社会システムに移行しなければいけない、とマルクスは考えたわけです。
 マルクスには研究分野の文献を読む際、必要だと思う箇所を徹底的に抜き書きする習慣がありました。ベルリン大学で学んでいた19歳のときに父に「あらゆる読んだ書物から抜粋をつくる習慣を身につけた」と報告しています。生涯にわたってこの習慣を守り続けました。(MEGAという国際プロジェクトによって最近知られるようになりました)

第4章 緑の資本主義というおとぎ話

 人生のコスパを突き詰めれば「いきなり棺桶に入るのがいちばんいい」と養老孟司は皮肉っていますが、究極的には生きる意味などなくなってしまうのです。資本主義による「魂の包摂」ここに極まれりというわけです。
 現存した社会主義とマルクスのコミュニズムはどう違うのでしょうか。(略)民主主義の欠如です。「社会主義」と呼ばれる国々では、共産党の一党独裁がしかれており、それが深刻な被害をもたらしました。現代の中国共産党による、香港の民主化を求める人々や、ウイグル人のような少数民族に対する弾圧にもつながっている問題でもあります。民主主義なき一党独裁にめざすべき未来社会の姿はないのです。
 20世紀を代表するマルクス主義社会学者のイマニュエル・ウォーラーステインは次のように指摘しました。資本主義が「世界システム」として成立してしまっているなかで、ソ連や中国アフリカの国々の目指したことは、資本主義を別のやり方で発展させ、近代化と経済成長をおしすすめることに他ならなかったのだと。実態は労働者のための社会主義とは呼べない単なる独裁体制にすぎなかった。資本家のかわりに、党と官僚が経済を牛耳る「国家資本主義」だったのです。
 たとえば日本は高等教育にとてもお金がかかります。その結果、学生たちは「奨学金」という名のローンを組むことになり、卒業までに数百万もの借金を背負うことになってしまいます。(略)私が留学していたドイツでは事情が大きく異なります。大学を4年で卒業する人の方が少なく、博士課程まで入れると20年くらい学生をやっている人もいることに当初は衝撃を受けました。学費が無料だからです。それどころか、一学期2万円ほどで電車やバスも乗り放題の定期券がついた学生証がもらえる。学生証があれば、学食も数百円で食べられるし、美術館やコンサートの割引もある。あのベルリンフィルのコンサートも15ユーロ(2000円ほど)で聴けてしまうのです。月額三万円くらいの安い学生寮もあります。授業料だけではありません。ドイツでは医療も原則として無料。介護サービスもてあつい、失業者手当、職業訓練なども充実しています。だから子育てにもお金がかからないし、老後までに2000万円貯める必要もない。嫌な仕事にも耐えなくてはいけないというプレッシャーも弱まります。これこそが、福祉国家の研究者であるイエスタ・エスピン=アンデルセンが「脱商品化」と読んだ事態です。生活に必要な財(住居・公園)やサービス(教育・医療・公共交通機関)が無償でアクセスできるようになればなるほど、脱商品化は進んでいきます。(略)現物給付の結果、貨幣を手にいれるために働く必要が弱まります。福祉国家は資本主義国家ですが、脱商品化によって物象化の力にブレーキをかけているのがわかるでしょう。
 BIとして毎月10万配ろうとすれば、財源として大企業や富裕層に負担を強いることになります。当然資本は抵抗するでしょう。日本がBIのために重税を課すなら、会社をたたんで税負担の低い国へ逃避すると脅してくる可能性が高いわけです。そうなれば税収は減り株価も下がってしまう。これが資本による脅し「資本のストライキ」です。
 フランスは労働時間が週35時間です。労働時間の短縮は労働者に余暇を生みます。日曜はレストランや美術館などをのぞいて、百貨店やショッピングモール、スーパーなどは原則として閉まっているわけです。お店が閉まっているから資本主義的な消費活動をすることができません。必然的に別の余暇の過ごし方がうまれます。カフェで読書、政治談義、チームでサッカー、庭や農園の手入れ、デモやボランティア。まさに脱商品化と結びついた余暇が、非資本主義的な活動や能力開花の素地を育むわけです。(略)コスパ思考に回収されない、社会の富や豊かさが醸成されることになるのです。
 福祉国家の限界を4点ほど指摘しておきましょう。第一に官僚制の肥大化という問題です(略)福祉国家の再分配政策が可能になるためには高度経済成長が必要ですが、ここで明らかになる第二の限界は南北問題です。ドイツの社会学者ウルリッヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンは「帝国的生活洋式」と呼んだ先進国の暮らしの本質は、収奪と外部化です。このことが第三の問題を生みます。大量生産・大量消費のライフスタイルの普及し、自然環境は犠牲になりました。公害問題や景観破壊が発生し、環境運動からも福祉国家は批判されるようになっていきます。第四の問題が、福祉国家の家父長的性格、つまりジェンダー不平等を再生産してしまったという問題です。

第5章 グッバイ・レーニン!

 マルクスが将来社会像を具体的に描かなかったのは、現在の価値観や常識を無批判的に投影してしまうというリスクがあるから。つまり、今の社会の欲望とかジェンダー観とかをベースにして、将来社会を構想してしまうという誤りを犯す可能性がある。未来社会はその時々の人々が自分たち自身で作り出すものだと考えたから、あえて具体的に描かなかったのです。(略)自分たちでいろいろ試行錯誤しなければなりません。
 自然科学と共同体を同時進行で研究していたマルクスは、やがて自然の「持続可能性」と人間社会における「平等」の強い関連に気づきます。というのも、富が偏在すれば、そこに権力と支配が生じ、それを強固なものにしようと人間や自然からの掠奪が始まってしまうからです。
 『否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有を再建するのである。(791)』
 より高度な経済的社会構成体の立場からみれば、個々人による地球の私的所有は、ある人間によるほかの人間の私的所有と同様にまったくばかげたものとして現れるだろう。ひとつの社会でさえ、ひとつの国でさえ、否、同時代のすべての社会を一緒にしたものでさえ、地球の所有者ではない。それらは地球の占有者、地球の用益者にすぎないのであり、よき家父として、これを改良して次の世代に遺さなければならないのである。(「資本論」第3巻の草稿より)
 社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマルクスは構想していたのです。その際、どのように富をコモンとしてシェアするかというと「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!(全集19巻21頁)」
 (パリコミューンによって)資本主義の中心であるパリに、貨幣と商品をやりとりして資本を増やすことを目的とするのではない、贈与や相互互助に基づいた実践が広がったのです。そのような経済的領域における大改革を基礎として、コミューンという形の、国家ではない、まったく新しい民主的な政治形態も実現されたのです。
 (労働者協同組合は)分業が複雑化した現代社会においては実現不可能に思われるかもしれません。けれども、ICT(情報通信技術)やアルゴリズムが発展している現代社会において、むしろ飛躍的に拡張しています。実際、大企業のグローバルサプライチェーンは、自分たちの必要とするものを、市場でのやりとりを経由せずに、相当な規模で確保しているわけです。それを労働者自身が能動的に管理していくような生産体制にシフトしていこうというわけです。(略)不必要な商品や過剰になった品目を減らしていき、「地産地消」で必需を反映した生産へのスケールダウンしていくことも、新技術の力を最大限活かすことになるはずです。
 大量生産や大量消費をやめた使用価値経済では、過剰な広告や頻繁なモデルチェンジ、計画的陳腐化なども不要になります。マーケティングや広告、コンサルタントのような使用価値を産まない仕事はもっと削られてもいいはずです。残った仕事は「ワークシェア」すれば労働時間を短縮でき、自由時間が増大します。ワークシェアの理念にあわせて、賃労働と家事労働の区別もなくさねばなりません。女性ばかりに押し付けるのもやめて、みなでローテーションしながらシェアするのです。
 『コミュニズムのより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、協同的な富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになったのち、そのとき初めてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏み越えることができ、社会はその旗のうえにこう書くことができる「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」』
 コミュニズムでは「構想と実行の分離」がなくなり、固定的な分業もなくなります。(略)資本主義が生み出す浪費、独占、民営化がなくなれば、誰しもに必要なものが十分に行き渡るだけの潤沢さを作り出すのです。
 ウイリアムモリスも「富」について次のように述べています。
『富とは、自然がわたしたちに与えてくれるものであり、道理をわきまえた人間が、道理にかなった用途のために、自然のめぐみのなかから作り出すものだ。日光、新鮮な空気、損なわれていない地面、食糧、必要で見苦しくない衣服と住居、あらゆる種類の知識の蓄積、そしてそれを広める力、人間同士が自由なコミュニケーションをとるための手段、芸術作品、人が最も人間らしく、向上心に燃え、思慮深いときに創造する美、つまり自由で人間的で堕落していない人間の楽しみ、そのために役立つすべてのもの。それが富である。』
 「都市と農村の対立」を乗り越えるのは、晩年のマルクスにとって本質的な課題でした。(略)パリコミューンの敗北を踏まえて改めて考え直すという側面もあったのです。
 アムステルダムは成長に依存しないまちづくりに舵をきったのです。「ドーナツ経済」という考えを導入し、より公正な社会を実現するためには、先進国による途上国からの搾取もやめなければならない。西アフリカのカカオ、バングラディッシュの洋服、スマホやパソコンに用いられるコルタン鉱石のコンゴでの生産における搾取や環境破壊を透明化し、是正しなければならないとアムステルダム市長は述べています。
 

第6章 コミュニズムが不可能だなんて誰が言った?

前の読書メモの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」や「資本主義の方程式」も同じ主題です。
「資本主義の限界」がマイブームのようです。
技術革新が起きて生産性があがったのに仕事量が減らないのは、成長をやめられない資本主義による「ブルシットジョブ」や「資産選好」などケインズも想像できなかった現象のせいなわけです。
同時にヒッケルも読んだので、次は「資本主義の次に来る世界」の読書メモになります。
わたしの読書メモが引用メインな理由は、自分のことばにしてしまうと一気に劣化するからです。ここは、と思った箇所は何度も読み返したいのでそのまま引用しています。それが読書感想ではない理由ですが、マルクスも「あらゆる読んだ書物から抜粋をつくる習慣を身につけた」というのを知ってちょっと嬉しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?