
読書メモ|なぜ働いていると本が読めなくなるのか|三宅香帆
✔️ (明治時代の)日本では残業は一般化していたようです。(略)まだ本格的に戦争経済には突入していない時期です。(略)1日の平均残業時間は2時間前後で、染織工業や機械器具工業の男子では3時間近く、最長では化学工業の12時間(略)背景に「労働組合が弱かったこと」「残業による割増賃金が魅力的だったこと」があった。(略)石川啄木は「最近はみんな忙しそうにしている。日本人はどんどんせっかちになっている」と嘆いていた。
✔️ 明治四年に刊行された「西国立志編」は「学問のすゝめ」よりもさらに売れた。明治末までに100万部は売ったらしい。(略)ここには様々なサクセスストーリーがのっているが、ほとんどが「身分や才能ではなく、自分で努力を重ねたからこそ成功した」という教訓で絞められている。(略)貴族は入れずにあえて「普通の市民から成り上がった人」のみの伝記集にしたのだ。(略)ホモソーシャルな空気に驚く。登場するのはほぼすべて男性である。そこに女性の介入する余地はない。
✔️ 手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう。(略)そんな身も蓋も無い欲求および切実な不安と密接に結びついている。
✔️ 大正時代、読書人口は爆発的に増大した。日露戦争後、国力向上のために全国で図書館が増設された。小学校を卒業した人々の識字率を下げないために採用された手段が読書だった。(略)さらにこの時代、時間もあり読書への意欲もある「大学生」という身分の青年が増えた。(略)大正時代のベストセラーはかなり暗い。「出家とその弟子」「地上」「死線を超えて」どれも10万部以上売り上げたベストセラーであるが、そろいもそろって、生活の貧しさや社会不安への内省なのだ。
✔️ 若者たちはせっかく学歴をつけたにもかかわらず、下級職員「腰弁」と呼ばれた。(略)上司にはぺこぺこおもねり、見栄を気にして見合わない高い洋服を買い、休みは減らされながらそれでも働きつづけ、しかし、常に解雇の恐怖と隣り合わせ。(略)「労働が辛いサラリーマン像」ができあがったのは実は大正時代だったのだ。
✔️ 明治中後期、働いて学費を得る苦学や、通信教育による独学がブームになっていた。貧しい家庭で育った彼らは「なんとか自分で勉強して都会に行って出世するぞ」というモチベーションで勉強し立身出世を夢見ていたが、学費という壁に阻まれた。
✔️「修養」が労働者階級の教育概念となった一方で、大正時代のエリート階級の間では「教養」が広まった。(略)行為を重視する修養と、知識を重視する教養の差が開いた。
✔️ 痴人の愛のサラリーマン譲治も仕事をやめてから小説を読み始めたように、仕事に関係のない教養を身につける余裕のあるサラリーマンは、意外とどの時代であっても、少ないのかもしれない。
✔️ 出版社側はその安さを、初版部数の多さで補うという大博打を目論んだ。そして大勝利に終わる。(略)全集をまとめて安く売る、改造社の「円本」システムの大成功ぷりに驚いた他の出版社もさまざまな円本全集を刊行した。本が安くなってみんな本を読むようになった時代だった。
✔️ 花束みたいな恋をしたの「パズドラ」は戦前においての「映画や観劇」といった受動的な娯楽、あるいは大衆向け雑誌といった娯楽要素の大きい雑誌を読むことに相当するのではないだろうか。
✔️ 戦前のサラリーマンは、企業に決められた休日と通勤時間に本を読んでいた。時代小説がよく売れていたのも電車のなかで読むのに適していたからだろうと考えると合点がいく。
✔️1950年代、中学生たちはふたつの進路に分かれざるを得なかった。就職組に入るか、進学組に入るか。1955年には高校進学率が51.5%になっていた。二人に一人が就職する時代だ。高校進学率が低かった時代と比較して家計の事情から就職せざるを得なかった人々の鬱屈はました。その鬱屈ゆえ、定時制高校に働きながら通う人々が増えた。彼らが求めたのは「教養」だった。家計の事情で学歴を手にできなかった層による階級上昇を目指す手段だった。しかし、定時制に通える時間のあるひとばかりではない。彼らが読むようになったのは「葦」や「人生手帖」といった「人生雑誌」だった。人生雑誌への掲載が優越感をもたらし、低学歴のコンプレックスをいくらかでも和らげたであろう。
✔️源氏鶏太の小説「天下を取る」が石原裕次郎主演で映画化された1960年。厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、労働者一人当たりの平均年間総実労働時間は2426時間だった。2020年は1685時間なのだから、さすがに働きすぎである。現代の1.5倍近く働いている。
✔️司馬遼太郎は「坂の上の雲」1巻のあとがきでこう述べている。
”明治は極端な官僚国家時代である。(略)社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。常時少数ではあるにしても、その気にさえなればいつでもなりうるという点で権利を保留している豊かさがあった。こういう国家というひらけた機関のありがたさを疑いはしなかった”「国家」を「会社」に変換すれば、それはそのまま1960年代論になる。
✔️”第一流の人物というのは、少々、馬鹿にみえる。少々どころか、凡人の目からみれば、大馬鹿の間抜けに見えるときがある。そのくせ、接するものになにか強い印象を残す”「竜馬がゆく」このような竜馬の姿は、まさに「情意考課」の日本社会に合致したヒーロー像だったろう。司馬作品には、かおりたつような60年代高度経済成長期的「坂をのぼってゆく」感覚が封じ込められている。
”政府も小世帯であり、陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、義務と権能を持たされたスタッフたちは小さいがために思うぞんぶんに働き、チームを強くするというただひとつの目的にむかってすすみ、疑うことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているであろう。楽天家たちはそのような時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。”
✔️ たしかに<社会>は(こんまりふうに言うと)ときめかないものに溢れている。自分を傷つけようとする場所である。だからこそ、「片付け本」という名の自己啓発書は、コントローラブルな<部屋>をときめくもので埋め尽くすことによって<人生>を社会から守ろうとさせる。(略)ここでいう<社会>とは労働環境という意味も含まれるだろう。社会は変えられない。政治や戦争の悪いニュースは自分の手ではどうにもできず、搾取してこようとする他者はいなくならず、劣悪な労働環境を変えることもできない。だからこそ、社会を「関連のない」「忌まわしい」ものだとして捨て置いて、帰宅後の部屋、つまり自己の私的空間のみを浄化しようとする、それこそが片付け本のロジックなのである。
✔️ 現代の労働に求められる姿勢に適合するためには、どうすればいいか。ノイズをなくすことである。ノイズを除去する行為は労働と相性がいい。(略)だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用を持っている。知らなかったことを知ることは、世界のアンコントローラブルなものを知る、人生のノイズそのものだからだ。本を読むことは働くことのノイズになる。
✔️ 90年代以前の<政治の時代>においては「知らなかったことを知ることができる」ツールであった。そこにあるのは社会参加あるいは自己探究の欲望であった。社会のことを知ることで社会を変えることができる。自分のことを知ることで、自分を変えることができる。
✔️ 90年代以降の<経済の時代>においては、社会のことを知っても、自分には関係ない。それよりも自分でコントロールできるものに注力したほうがいい。
✔️ 2002年にゆとり教育が開始された。時をほぼ同じくして、村上龍「13歳のハローワーク」がベストセラーとなる。職業事典のような本である。たとえば「文章が好き」という項目を開くと「作家」の説明が載っている。「最後の職業」とあり、さまざまな体験や職業を経てからなっても遅くはない。犯罪者でもなれる職業なんだから焦ってなろうとする必要はない、という意である。20代で鮮烈なデビューをかました村上龍にだけはいわれたくねえ、と思う。
✔️ 岩木秀夫は、このような社会について「グローバル・メリトクラシー(国際能力主義)社会と、イディオシンクラシー(個性浪費)社会という、二兎を追う社会」と的確な言葉で名づけている。競争しなければならないのに、個性を活かさなければならない、このジレンマは当時つくられたものだった。
✔️ 80年代のバブル経済時、田中康夫「なんとなくクリスタル」や上野千鶴子「<私>探しゲーム 欲望私民社会論」を参照すれば、消費による自分らしさの表現が可能だったことがわかる。しかし、90年代のバブル崩壊を経て、新自由主義社会化による労働環境の変化の影響を受けた若者たちは、もはや消費で自己表現することは難しくなった。その結果、労働そのものが「自分探し」の舞台になったのである。(略)「自己表現」という夢が、若者を長時間労働にのめり込ませてしまっていた。仕事への過剰な意味づけが2000年代という時代を覆っていた。
✔️ インターネットで本名ではなくハンドルネームを使い合っているというのは、みんなを平らにするための、ある種の発明だったとも言えます。(インターネット的 糸井重里)(略)つまり電車男とインターネット的は同じことを語っている。インターネットの情報とは社会的ヒエラルキーを無効化し、現実の階級が低いひとにとっての武器になりうる存在だった。それはフラット性というより転覆性を帯びているのかもしれない。これをうまくつかったのが「2ちゃんねる」のひろゆきという人物だった。 ”
”そうして彼は自らを「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」と位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込む挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独自の優越感に満ちた態度が示され、支持者を熱狂させる。(略)従来のヒエラルキーを転倒させ、支持者の喝采を調達するこに成功している。___ひろゆき論_伊藤昌亮”
✔️ 求めている情報だけを、ノイズが除去された状態でよむことができる。それが「インターネット的情報」なのである。(略)つまり読書して得られる知識にはノイズ 偶発性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。読者が予期しなかった偶然である情報を私たちは知識と呼ぶ。しかし、情報にはノイズがない。なぜなら知りたかったことそのものを指すからである。(知識🟰情報➕ノイズ)
前田の人生の勝算を読んでいると、まさにこの新自由主義的発送を内面化していることがよくわかる。「自分の人生のコンパスを自分で決め、努力する」という論理は自己決定、自己責任論そのものだ。(略)一方で「自分が決めたことだから、失敗しても自分の責任だ」と思いすぎる人が増えることは組織や政府にとって都合のよいことであることもまた事実である。ルールを疑わない人間が組織に増えれば為政者や管理職にとって都合のよいルールを制定しやすいからだ。
✔️ 興味深いのが「映画を早送りで観るひとたち」と同年に出版された「ファスト教養」である。ファスト教養はノイズを除去した情報としての教養のことである。(略)たとえば、起業家の田端信太朗は、「えらいひとと話を合わせるツールとして教養がつかえる」と述べている。このことを著者のレジーはまさにファスト教養的だと批判的に参照する。
✔️ 「推し」を推すことは、人生そのものであるはずだった。しかし、自分だけでは自分は生きられない。そのことにあかりは直面する。自分の骨は自分で拾えない。他者に拾ってもらわなくてはいけない。自分の人生から離れたところで生きている他者を人生に引き込みながら自分は生きていかなくてはならない。(略)自分の人生の文脈以外も、本当は必要なのだ、人生には。そうあかりは悟るのだった。(推し、燃ゆ)
✔️ 自分から遠く離れた文脈に触れること、それが読書なのである。本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない。ということだ。(略)自分に関係あるものばかりを求めてしまう。それは余裕のなさゆえである。だから、私たちは働いていると本が読めない。仕事以外の文脈を取り入れる余裕がなくなるからだ。
✔️ たとえば、欧州に赴任した日本人は帰国後、意図的に労働時間を短くする傾向にあるのだという。日本は過度な丁寧さを求める職場慣行が存在する。しかし、このような態度評価は仕事量には関係がない点であるはずだ。そのため、削るべきだ、と欧州から帰ってきたサラリーマンの多くは思う傾向にあることが、山本、黒田の研究で示されている。(労働時間の経済分析_超高齢化社会の働き方を展望する)
✔️ 自己責任と自己決定を重視する新自由主義で、私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。戦いを望み続けた自己はどうなるのだろう? 疲れるのだ。
✔️ 「トータルワーク」とはドイツの哲学者ヨゼフ・ピーパーがつくった言葉だ。生活のあらゆる側面が仕事に変容する社会を「トータルワーク」と読んで批判した。マレシックは自分がバーンアウトした大学教授だったころ、睡眠時間すら削ってとにかく時間に追われながら一日中仕事のことを考え、いつも時間に遅れている気がしたという。その末にバーンアウトは起きる。さらにマレシックはワーキングマザーを例にとって、一日中、企業の仕事と育児、家事の仕事で埋め尽くされる「トータルワーク」が存在することも指摘する。
✔️ 全身コミットメントするのは楽であるということを認めることから始めよう。(略)全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから楽だ。達成感も得やすいし「がんばった」という疲労すら称賛されやすい。頑張りすぎるのはかっこいいし、複雑なことを考えなくていいという点で楽だ。
✔️ 本も読めない全身のコミットメントは楽だが、あやうい。長期化すれば待っているのは鬱病だからだ。過剰な自己搾取はメンタルヘルスを壊す。
✔️ 正社員でいるために週5・1日8時間勤務+残業の時間を求められるのは、仕事に全身を求められていた時代の産物ではないのか?そのぶん、家事に全身をささげていたひとがいたからできたことではないのか。(略)仕事や家事や趣味や、さまざまな場所に居場所をつくる。さまざまな文脈のなかで生きている自分を自覚する。他者の文脈を取り入れる余裕をつくる。その末に読書というノイズ込みの文脈を頭に入れる作業を楽しむことができるはずだ。それは決して容易なことではないかもしれない。複雑なことかもしれない。しかし、わたしたちはその複雑さを楽しめるはずだ。
✔️ ”君たちはみんな、激務が好きだ。速いことや、新しいことや、未知のことが好きだ。君たちは自分に耐えることが下手くそだ。なんとかして君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。 もっと人生を信じているなら、瞬間に身を委ねることが少なくなるだろう。だが、君たちには中身がないので待つことができない。怠けることさえできない! どこでもかしこでも、死を説く者の声が聞こえる。この地上には、死を説かれる必要のある連中が、いっぱいいる フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラ」”
本が好き過ぎて京大大学院で研究してた文学少女が、本を読み続けるにはお金がいるぞと就職したら 本が読めなくなっていた。
本をじっくり読みたいがために3年半後、退職。
本を読む余裕のない社会っておかしくないですか?と
労働史と読書史を並べて俯瞰して考察している本です。
知的かつ、軽くてユーモラスな口調も、なかよしの女友達としゃべっているようで楽しかった。
私も昔みたいに本が読めていません。自分だけじゃないのか!と思うひとが多いからこの本はベストセラーなのでしょう。とはいえ、知らないことを知るのは喜びなので、朝の小一時間とか、ジムの後の10分とか、仕事前の時間をつかってなんとか読書を楽しんでいます。仕事終わりは映画やドラマを観てしまってダメですね。トータルワークのワーキングシングルマザーなので燃え尽きないようにしたいです。