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それは冷え切ったスープに一つ浮いた油みたいな (2024/8/7夜

唐突だが今、最北の離島である礼文島にいる。どういうわけか、特に考えずテキストでOKと片手間に送っていた予定が実現していたらしい。普段遊びや旅は誘いも計画も自分が担当する事がほとんどだから、片手間に返事をして日程を抑えるだけで旅が出来てしまう事実にかなり驚いたし、子供っぽい事を言えば、今まで俺以外はこんな楽してたのか、とも思う。8×10という、1枚シャッターを切るたびに1万円かかるような骨董品を背負った主催者と、ライカM11を買ったのに何故か持ってこないような友人との3人旅だ。所謂、というか正に撮影旅みたいなもので、彼らの撮りたい絶景スポットになるべく迷惑をかけないように付いていく、というのが自分の抱える最大の使命だ。結果としてそんなに迷惑をかける事なく時間は過ぎ去り、粗雑な野営飯を流し込んでいたら、上空は過去みたいな光源で満たされていた。ふいに、夜に片手を広げてみる、上空の明るさで無闇に伸ばした爪が透けて見える。街に帰ったってそう見えるとは思うが、こうして夜の下でアスファルトに背を任せでもしなければ、まずその手と目は携帯電話に向かっている事だろう。単純に美しいと、壮観だと思った。最北の地に来てから驚かされるのは、決まって大きさだった、大きさというかスケールと表現した方がいいのだろうか。普段接しているスケールとは違ったものや現象と触れていると、生物個体としての自分の輪郭が際立ってきたのを感じた。それは冷え切ったスープに一つ浮いた油みたいな、あるいは住宅に迷い込んだ羽虫のような様相だと思う。初めてにも近い体験だったが、この輪郭の実感が好きだった。意識を持ったただ一つの個体として、そこに存在しているだけの状態。ゆっくりと星空に絆されていたら、何度目かの潮風で解けた髪が靡いた。細胞の亡骸の一つ一つがまた輪郭を描く、曖昧だった輪郭が細密になっていく、外世界と内世界の境界にある緊張が解れていった。素晴らしいと思ったので、詩を書くことにした。写真撮影は忘却の儀式なのでしなかった。
 旅とは、外世界を観測し持ちうる感覚のうちいくつかで記録する移動のことだけを指すのではないように思える。外的な刺激によって内省が開始され、醸成された過去の発酵物を言語非言語問わずサルベージする行為も、十分に旅だ。むしろ後者の方が発生しなければ、その移動を旅と呼ぶことはないし、逆説的に在ればそこが新宿だろうと旅と言いたくなる。つまり、僕が旅と呼びたいのは、外世界の観測ではなく、幾千回巡った内世界のフロンティアを探す行為のことだ。いつの間にか内世界のどこかで醸成されていたこの考えも、今日の旅がなかったら辿り着けなかったであろうフロンティアだ。個体としての輪郭が失われる、または乱雑に描かれて綻んでいる街という一種の自然から抜け出して見た上空の天の川は、そういう詩を書かせた。


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