いのちの価値は変わりますか (森内ゆい)
【あらすじ】
若葉が生まれ育つ西暦2050年台、家庭で『飼育』される犬猫の半分以上は人工 - いわゆるペットロボットに置き換わっている。
生体ペットではなく人工が当たり前という時代を迎え、生体か人工かを悩むことなく、どのメーカーから出ているどのような機能ペットロボットを選べば欲求が満たされるか、それがポイントとされるようになった。
そんな時代において、ある日若葉は、ひょんなことから人工ではない子犬を飼うことになる。
【カテゴリ】#小説
【読了時間】8分
【著者プロフィール】
神戸在住の在宅Webライターとして、ペット記事や不動産記事、医療健康記事、シナリオを執筆中のシンマザ。
文学賞を地味に受賞した経験があり別出版社から書籍が発売中。
現代社会問題ローファンタジー『赤い月はもう見ない』事故物件本格ホラー『ことりの巣』など。人と動物が救われることをスタンスにストーリーを作る。犬が尋常でなく大好き。経理など事務経験も長く基本は体力不足の座り仕事人間。
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その時代いのちの価値は
通学路にいつも、自宅の庭に咲く花や木を丁寧に世話する老人がいた。
中学3年生の春を迎えた青山若葉は、一人暮らしであるらしいその老人が、昨秋から毎日自宅前を通る自分に
「学校かい、気をつけて行っておいで」
と笑顔で声をかけてくることで、最初は気恥ずかしく感じながら自分も応えているうち、老人が庭に出ていないときは気になるようになった。
若葉が老人を気にするようになったのは、老人がたいてい庭に出るときには、その足元に薄茶色の小型犬が丁寧な態度で控えているからという理由もあった。
若葉が生まれ育つ西暦2050年台、家庭で『飼育』される犬猫の半分以上は人工に置き換わっている。
いわゆるペットロボットである。
一昔前に人気が出たそれらは、犬や猫の飼育を考える人々にとって、優先選択肢となっていた。
生体ペットではなく人工が当たり前という時代を迎え、生体か人工かを悩むことなく、どのメーカーから出ているどのような機能ペットロボットを選べば欲求が満たされるか、それがポイントとされるようになった。
死別の不安、住環境による飼育制限、健康管理の難しさもなく、プログラミングされたベースの性格に、飼い主がデータを加えることで「育てる」楽しみがある。
富裕層と呼ばれる人々は、趣味のひとつとして生きた犬や猫を買い迎えているが、それは都心に集中しており、若葉が住む地方都市ではペットショップやブリーダーなども衰退して見ることはなく、入手ルートはない。
獣医師は今も存在するが、これもまた開業動物病院は若葉の家から車で10分のところに60近い男性獣医師がひとりいる老舗がひとつだけである。
そんな社会であるから、若葉は最初にその犬を見たときは、生きた犬だとは思わなかった。
しかし庭を歩く老人に付き従おうとして歩く犬は左の後足が不自由らしく、うまく歩けずに引きずったり躓いたりしていた。
それをまた疎ましく感じているようなしぐさも見せた。
下校時にまた老人と犬を見かけた若葉は、
「おじいさん、もしかしてそのワンちゃん、本物?」
老人はちょっと恥ずかしそうに笑い、
「お嬢ちゃんたちから見ると古くて流行遅れかな?チャコって名前でね、春に4歳になるんだよ。生まれつき足が悪くてね、死んだ女房の実家が親犬を飼ってたんだよ」
丸い黒目がちのチャコは若葉を見て尻尾を振った。
「可愛い」
若葉は庭を囲む鉄格子の間から手を入れて
「チャコ、おいで」
と声をかけた。
「犬好きかい」
「本とか昔の映画でよく見てたの、都心とかd富裕層の人とか飼ってるのはニュース映像で知ってるけど、この辺で実際に飼ってる人は初めて見た」
それだけではない。
植物も人工、つまり精巧で美しさを兼ねた造花に人気が集中しており、老人が丹精込めて世話をする庭に咲き誇る花や緑の影を落とす木は、あまり見かけることはなかった。
老人とチャコとの交流が始まり、中3を迎えた若葉は、老人から、
「チャコは来月おかあさんになるんだよ」
と教えられた。
「子ども生むの?」
若葉の問いに、老人は、
「前に言った女房の実家あるだろ?オス犬を引き取ってんだよ。女房の妹がその犬を連れて女房の遺影に好物の菓子持ってきてさ、気がついたら交尾してた。大丈夫かと思ったけど、妊娠してたよ。まあめでたいもんだ。病院連れてってエコーかけたら1頭だけど順調に育ってるよ」
と破顔して答えた。
いつも頭を撫でていたチャコが子犬を生む、母親になる、若葉は感慨を込めてその小さな体を見下ろした。
「もらってくれる人探さなきゃな」
「おじいさん飼わないの?」
「誰ももらってくれなきゃ飼うよ」
老人は笑顔のまま、探るような目をして若葉の顔を覗き込んだ。
「あ、あたし?あたしがもらってもいいの?」
若葉は思わず震えた声を漏らした。
「好きなんだろ?犬」
好きではあるが、自分が生体の飼い主になるとは想像したこともなかった。
それは嫌悪ではなく、届かない夢であった。
「でも、おとうさんとおかあさんに訊かなきゃ」
老人は、あ、という顔をして、
「そうか、そうだな」
と戸惑いの口調で言った。
中3の若葉が一人で決めて即答できることではないのだ。
迎え入れて育てていくには、この社会は老人が若く第一線で生きていた頃と違い、犬猫に厳しいのである。
フードなど必需品の入手、医療を受ける場所、それらが、既に業界としての働きを失っている。夏に15歳になる、まだ子どもの若葉にクリアしていける問題ではない。
「でもほしいな。おとうさんたち説得するから、まだ誰にもあげる約束しないでね」
若葉の父は総合病院で内科医として勤務している。母は同じ病院で出会った薬剤師で、今は処方箋薬局でパート勤務だ。
犬を迎え入れるのに、経済的問題はない。
フードなどは入手が面倒だが、おそらく両親ならそれをクリアしてくれるだろうと若葉は確信していた。
そして両親どちらも、子どもの頃にそれぞれ猫と犬を飼っていたことで、今の人工ペットの時代を喜んで受け入れている様子がなかった。
絶対二人も喜んでくれる、若葉はそう思って一人笑みをこぼした。
三日の話し合いで、若葉は両親を納得させた。
翌月5月中旬に、チャコは1頭の雌犬を出産した。
母犬から離すにふさわしい時期を見て、老人は若葉を呼び出した。
それは奇しくも若葉の誕生日数日前となった。
温かく柔らかい子犬を受け取り抱きしめて、若葉は子犬に、ひまわりという名前を贈った。
両親が医療関係の横繋がりでわずかに確保したルートから、良質のフードを定期購入する手段も得て、動物病院には少し長い散歩がてら歩いていくようになった。
そうして順調に育つひまわりの、4度目の健康診断で、いつもの獣医師は眉をひそめた。
若葉も先週から気づいていた腹部のしこりを、慎重に何度も触診している。
その日採血による検査とエコーやCT検査が行われ、結果は母の電話に報告された。
「…悪性腫瘍らしいよ、ひまわりちゃん」
母は暗く声を落として若葉に告げた。
「嘘でしょ…なんで、こんなに元気でフードもいっぱい食べて、お水だってたくさん飲んで、お散歩も楽しそうで」
若葉は腕に抱いたひまわりに頬を寄せた。
母はそれを見て言葉を探しているようであったが、ようやく震える声を絞り出した。
「先生がね、自分のところでは治療が難しいって。昔なら大きな病院に協力してもらって手術とか投薬とか続けるんだけど、今この町から通える範囲にそれがないから…これから治療をどうするか決めてほしいって」
「決めるってどう決めるの?」
ひまわりは人工ペットではないのだ。
人工ペットの飼い主たちは、本体を買い替えたり、プログラミング修正を依頼したり、その個体にとっての「死」をあまり悲しむことなく受け入れている。
しかし若葉には、ひまわりは唯一の大切な生きた犬だ。
いつか死ぬのは自然の摂理だからと、何もせずにいることはできない。
誰がどうしてこんな社会にしてしまったのか。
本や映画で見た獣医はどこに消えたのか。
実際には犬猫だけではない。
少子化で産婦人科医や小児科医を目指す人も激減し、保育園や幼稚園、学校も設備は残しながら使われていないところは珍しくない。
生命が生まれて育ち、生きていく、その土壌がこの社会から失われつつあるのだ。
ひまわりの腫瘍については、その翌日、老人に伝えた。
「そうか…若葉ちゃんには逆に悲しい思いさせちゃったことになるなあ。俺は犬も猫も小動物も、たくさん世話して看取ってきたんだが、若葉ちゃんはそういう感覚知らずに育ってきたもんなあ…。うちに置いといて看取ってやるべきだったよ。ひまわり、おまえまだ生後半年じゃないか。そんな早く家内んとこに逝っちまうなよ…」
老人の言葉を聞いて若葉は涙を大量に落とした。
「ひまわりがいてよかったよ…悲しい思いを知らない社会がいいの?ペットだけじゃない。人間だって生まれなくなってるんだよ。お金がかかる、大人が生き方縛られる…そんな社会で子どもが少ない、生まない個人の責任だなんて、違うでしょ?おかあさんだってもうひとりほしかったの。でも薬剤師としての仕事を続けようと思ったら、生めなかったの。チャコだってひまわりだって、生まれて幸せになれる社会に変えてかなきゃだめだよ」
老人は今にも泣きそうな表情で、それでも一生懸命笑みを浮かべた。
「俺な、10年以上前に娘と孫を亡くしたんだよ。事故に遭った町で、すぐに救急対応してくれる大きな病院がなくて、ふたりとも満足な救命医療も受けられなくて逝っちまったよ。あれからいろいろ諦めてたけど、チャコやひまわりにまで、それを押し付けてるのは俺のエゴだよな。ただ、ひまわりの万全な治療をしてくれる動物病院がない現実は、今すぐには変えられないんだよ。せめて、俺たちで看取ってやるしかない」
若葉は首を横に振った。
「なんで人間と違うの?…ううん、人間だって同じ。おとうさん内科だけど、同じ病院ではいろんな人が死んでくよ。おとうさんが昔から知ってる医療現場とは違うって言ってる。
あたし将来子ども生めるの?育てていけるの?」
老人にこたえきれるはずがないことを、若葉は泣きながらぶつけていた。
それが当然と教えられて育ってきた。
昔は人が手足を使っていた仕事は、機械化が進んでいく。
仕事を奪われた人への経済的保障は進んでいない。
ひまわりのかかりつけ獣医師は、息子も娘も需要がない獣医師など進路の眼中になく安定を約束された職を選び、後継ぎはいないのだと言った。
「すみません、お話きかせていただいていいですか」
門の向こうから若い女性の声がした。
開いている門を、それでも遠慮したのか入ろうとせず、ふわりとした長い髪の30才には届かないだろう愛らしい顔立ちの女性が頭を軽く下げた。
「どちらさんですか」
老人が怪訝そうに声をかけた。
「社会問題を取り扱っているジャーナリストでして。こちらのお嬢さんが犬を連れていってらしゃる動物病院に去年からお話をうかがってるんです」
老人は
「話を聞くところを間違えてるでしょう。うちは一人暮らしの高齢男ですよ」
「ワンちゃんのことで。母が昔飼っていたのでよく思い出話を聞いてまして。ペット業界や獣医業界の衰退と、人間社会の生きにくさは切り離せないと考えて、そういった取材を続けてるんです」
老人は面倒そうにため息をついた。
女性は遠慮がちに名刺を出しながら、
「大川翠といいます」
と深々と頭を下げた。
大川翠は帰宅する若葉のあとをついてきて、玄関先で若葉に追いついた。
「そのワンちゃんの延命治療を手伝わせてほしいの。その合間にどうして犬を飼いたいと思ったか、飼った結果早死にする犬だったことでどんな気持ちか、話を聞かせてほしいの」
若葉はひまわりを抱きしめ、
「最後無神経!」
と叫んだ。
大川翠は、
「あ、…ごめんなさい。野次馬じゃないのよ」
と申し訳なさそうに言った。
老人の家にも翌日から彼女は通い続けたらしい。
そして、彼女の記事をネットで検索した若葉は、彼女が生命を尊重することなく合理化を目指した社会を憂いていることを知った。
大川翠は、若葉が答えないので老人とチャコの写真を記事に掲載するようになった。それは中小都市でお互いの孤独を埋める存在として書かれていた。
あたしたち、そのために犬を飼ってるんじゃない…若葉は誰もいない部屋でそうつぶやいた。
大川翠から大学内にある病院を紹介する電話があったのは半月後のことだった。
電車とバスを乗り継いで1時間半の隣接した市内にあった。
ひまわりを診察した獣医師は
「かわいそうだけど、あと1ヶ月かな。安楽死って手もあるけど、どうする?」
と淡々と言った。
「先生はどうして獣医さんになったの?」
40前後であろう彼は、
「こんな社会になっても、犬や猫を飼ってる人がいるから、辞められないんだよ。自分でも何かできるかも、ってね」
しかしひまわりを助けることはできない。それはこの獣医師の責任ではない。
生命とはそういうものなのだ。
学校でも教えてくれなかった生命の哀しさ。
社会が忘れ、どこかに追いやろうとしている生命。
死なないペットロボットに枯れない造花、大人に苦労をかける子どもを生まない選択、好きな仕事を奪われていく人々、若葉が成人する数年後に、それは改善されているはずがない。
大川翠と対面した若葉は
「あたし子ども生んでもいい社会なんですか?その子に生命をどう教えたらいいんですか?犬を抱いたぬくもりをどう伝えたらいいんですか?その子はそれを喜びとして受け止められる子として育つんですか?」
と質問した。
大川翠は、
「そうね。わたしが社会に訴えたいのも、そういうことなの。合理化で便利になる社会は悪いわけじゃない。でもその中で取捨選択の権利が人や動物にないのは悲しいよね。余分な生命を排除していくことが決められた社会で生きることで保証された安全なんて」
若葉は生後すぐのひまわりを思い浮かべた。
「誰も余分な生命なんかじゃない。書くならそう書いてください。足が悪いチャコも、病気で助からないひまわりも、必要としてる人がいたんだってこと」
「わかってる。それを今生きている人に思いだしてほしいの。生命を守る仕事を取り戻したいとも思ってる」
大川翠の一連の記事は反響を呼んだ。
獣医師が現場に戻り始めた。
小児科医や産婦人科医の待遇改善案と具体策が施行され、医療界も変わりゆく見通しだ。
余命1ヶ月とされたひまわりは、いつもの獣医師が車で往診を続けてくれた。
老人もチャコを連れて毎日ひまわりを見にきてくれる。
余命宣告を超えて、ひまわりは生き続けた。
そして、若葉が高校1年になった春、ちょうど1歳の誕生日を迎えた3日後に、ひまわりは自分を大切にしてくれた人々の前で眠るように逝った。
「こんな社会に生まれて育って幸せだったのかな」
若葉は止まることのない涙を拭きもせず、ひまわりの亡骸に顔を押し付けて言った。
老人は
「俺たちがいつかあっちに逝ったら聞いてみようや。俺はこいつらがいて幸せだったけどさ、孤独を埋めるために犬を不幸にしてたとしたら、この間違った社会に組み込まれたと同じだからな。そこ間違っちゃだめだ」
出会いの先に別れがある。
若葉が体験する死別だった。
生体ペットの概念が消えて、核家族が当然となり出産は敬遠された社会で、少女が手塩にかけた生命がこの世から消えた。
それを救える方法が消えた社会を変えようとする取り組みは、まだ動きは鈍かった。
どうか、と若葉は冷えていく小さな亡骸を抱きしめて祈った。
生命の価値を思い出して、これ以上忘れてしまわないで、ひまわりのような子を増やさないで、犬が犬の寿命いっぱいまで生きられる社会に戻して
尽力する人の声は少数で小さい。
それでも、いつかどのいのちもまた世界で輝ける時代が戻るかもしれない。
どうかそうあってほしい、そうしたらあたしは子どもを生んでまた犬を飼うから。
ひまわり、また会おうね。
人が手掛けてこその仕事だと見直される動きは活発になり始めた。
社会を変えるための声をあげる一人になりたいと若葉は思った。
生命の温かさを知らない子どものために、それを自然に知ることができる世界を取り戻せるように、需要がなくとも獣医師を目指そうと決心した。
世界の隅で、小さな歯車が回ろうとしている。
いつか生命の輝きが世界であふれる日を願って。
少女の腕から1年ですり抜けた犬が、いつか世界を変えるかもしれない未来のできごとであった。
(了)
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