佐藤泰志のこと(辺見丹)

――二巡目「私の好きな本」

 香川県の高松市に半空という喫茶店がある。小さな看板しか出ていないから慣れないうちは気づかずに何度も通り過ぎてしまうかもしれない。
 木目が美しいカウンターや客席の後ろの本棚には様々なジャンルの本がびっしりと並んでいる。マスターの名前は岡田陽介さんといって、コーヒーに文学、音楽や映画をこよなく愛している人なのだが、多くを知ることで悟ってしまうようなところが全然なくて、とてもかっこいい。

 普段からよく本の話などをしていた先輩のKと私は、何かと理由をつけては車で一時間ほどかけて徳島から香川まで行き、半空でコーヒーを飲みながら岡田さんと話して帰ってくるという遊びを繰り返していた。それはちょうど短歌を覚えた頃と重なっていて、週末に行く予定が決まったりすると、岡田さんに見せる歌をいくつか選んだ。おれは短歌のことは分からんけど、と前置きをしつつ、「ええなあ」とぽつりと言ってくれるのが嬉しかった。今の私はあの時期に多くを負っていると思う。

 ある日、岡田さんが村上春樹と比較する形で教えてくれた作家が佐藤泰志だった。二人は同時代を生きた作家で、翻訳文学から影響を受けた文体など多くの共通点があるが、村上が毎年ノーベル文学賞の有力候補に挙げられるような世界的な作家である一方、佐藤泰志は芥川賞の候補に複数回挙がりながらも受賞ならず、三島由紀夫賞を逃したその翌年に自ら生涯を閉じていた。
 すぐ人生に眼が向くのは私の悪いところだと思うのだが、これからも人生をやっていくしかないのだからしょうがない。やっぱり気になって、佐藤泰志を読んだ。
 『きみの鳥はうたえる』を読み、『市街戦のジャズメン』など初期の作品を読んだ。その後も手に入るだけの作品を短い間に一気に読んだ。すぐ好きになってしまった。

 例えば、『そこのみにて光輝く』という題名は、佐藤泰志の作品世界全体をよく言い表しているように思う。その世界は其処でもあり底でもあって、主人公たちは物理的に困窮していたり、家族が外へ出せないような問題を抱えていたり、ヤクザと手を切れなかったりする。このような状況は何よりまず自分で選べないものであり、また選ぶしかなかったものだ。彼らの生きる世界は他でもない私たちの生きるこの世界と地続きで、そうした状況を彼らが痛みを引き受けながら生きていく姿が胸を打つ。
 佐藤泰志が描く主人公たちは自分の心情をあまり語らない。だから読者もその行動の帰結を見るまで何を感じていたのか分からないことが多い。それは、彼らが外から押し付けられる言葉だけの理念や道徳に懐疑的で、自分がもつこの身体だけを頼りに世界を吟味しているからだ。
 彼が好んで夏を描いたのもこうした世界との向き合い方と無縁ではないのだと思う。夏の日差しに目が眩む感覚は、すでに見えているものをぐらつかせる力を思わせるし、日に灼かれてひりつく感覚や夏特有の高揚感と不快感が同居しているあの雰囲気は、否応なく自分の身体へと人を向かわせるからだ。ここから始める生は既存の道徳と折り合わずに痛い目を見ることもあるが、その途上でこそ生がきらめく瞬間があるのかもしれない。

 佐藤泰志と出会ってからずっと、傷つきながらも信じるに足る本当のことを求めるあの生き方に私は憧れているような気がする。

  息を継ぐことでつくづく生きてゐるのが分かる みづに光は折れて

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