蔑ろにすること 蔑ろにされること
無意識の刷り込みの一つですが「蔑ろにするされる」許可があります。
「こういう相手は蔑(ないがし)ろにしていい」
「自分はこういう自分だから、蔑ろにされても仕方がない」
“していい” とは蔑ろにする側の許可
“されてもいい” とは蔑ろにされる側の許可
意識しないまま、刷り込まれていることも。
事件があるとすれば
繋がっている「加害側」と「被害側」の心理
哀しいことに、この根っこは実は繋がっており
両者とも過去に同じ体験をしているからこそ
「していい」「されていい」 となる。
今日はその解説をしていきますね。
過去に目の前で体験した出来事から、その心への入り方はいくつかあります。
例えばトラウマって。。
衝撃と共に大きく感情が動けば、あまりにもひどい光景である場合には、その記憶さえ消す機能がヒトには備わっていますが、消しきれないのがトラウマに変化することは周知の事実です。
トラウマになると、何かのきっかけでフラッシュバックを起こしますが、「許可と禁止」は、それとは性質が異なります。
よくない衝撃的な体験は、どう解釈していいか謎なことがあります。
「許可と禁止」は、自身の中でその謎を正当化の末、強制的に納得し「価値観」として取り入れるもの。
この状況は、あれが○○だったから、△△で、こうなるよね
正当化は、ヒトにとって大切な機能です。
これが無くては自分の身を守り、自分の人生を歩んでいくことができません。
でも人は、時々間違っている使い方をすることがあります。
そして自分の身も危険だと判断すると同時に「○○の時はこうしてもいい」という「許可」と「○○してはいけない」という「禁止」が同時に入ります。
でもそれは、自分で作った「価値観」ではなく、よくよく見れば「作られた価値観」です。
ちなみにこの「作られた価値観」を自分の中から除外すれば、簡単に言えばありのままの自分がようやく顔を出すので、「人格が変わった」と評価されることもありますが、当然と言えば当然です。
私も丁寧に超えてきて感じるのは、やっぱり魔法でもないしスピリチュアルでも無かったなぁということ。
※「暴力」は、殴る蹴るだけではないことを前提とします。
またここでは、暴力の現場を見ている人の立場からお話します。
★被害側を見た時
そのよくない体験の例えば被害側が○○の状態の人の場合
○○の時には、暴力を受けるものなんだ
○○の時には、虐げられていい存在なんだ
自分が○○の時には、暴力を振るわれる前提ができる。
許可
自分が○○の時には、人は暴力を受けてもいい
禁止
○○してはいけない
○○の状態であってはいけない
(女性であれば)女性は、虐げられる存在なんだ
女性である自分は、虐げられる存在なんだ
(男性であれば)女性は見下して虐げていい存在なんだ
女性は、支配していいんだ
※暴力に性差はありません。なので逆も然りです。
★加害側を見た時
相手が○○の時には、暴力を振るうものなんだ
相手が○○の時には、暴力を振るっていいんだ
暴力を振るって身を守っていいし、それが近しい関係性の中で正当化され、相手のためという前提ができる。
許可
自分が○○の時には、暴力を振るっていい
禁止
相手が○○の時には、そのままにしてはいけない
相手が○○の時には、そのままにしていては危険だ
こういうことが一つ一つ、べきねばちゃんとになり、自分の命を守るスキル、社会に出れば荒波を乗り越えるスキル、となっていきますが、この流れだからこそ、このスキルが人の間で摩擦となり、孤立感が明確になりつつ生きづらさを実感できるようになりますね。
この価値観が、その後の人生について回り、大きく狂わすことになります。
心理的な状態としては、そのような状況になる以上、それぞれの関係性が既に分断されており、そこから修復のために温かい関係性を作るなど、並大抵の努力では叶うことはありません。
面前DV
諸々簡単に書いていますが、例えば児童虐待の一つである「面前DV」で、こどもが何を見たのか、何を感じたのか、そこから何を得たのか。
当てはめてみるとよくわかると思います。
通常の生活の中で、あり得ない世界が入り込むのです。
*「虐げていい」「虐げられていい」という「許可」が入っている世界
*その許可が入っていない、知らない世界
どっちがいいですか?
暴力の考え方の許可が入っている世界では、物事に対し、一つ一つその暴力の考え方からの判断をするようになりますが、ベースが無自覚でそのように作られていると、結構しんどいということが、おわかりいただけたでしょうか?
自覚後も修正しにくいのはなぜ?
そして厄介なことに、「価値観」であるからこそ、自覚できたとしても、暴力を選択しないと決めても、自分の隅々まで行き渡っている「価値観」をどう変えていいかわからなかったり、それが生活まで変えられるようになるには、結構時間が掛かります。
いわゆる「暴力」への依存だから
愛着障害への障害者認定
ベースがそう作られているので、ヒトの心理にはグラデーションがあるにせよ、更に日本に昔からある「べきねばちゃんと」が大きく関与し、生きづらさとして機能し、生活に当然支障がある。仕事にも支障がある。人間関係にも支障がある。それが高齢者まで引きずり、未自覚のまま命を終える人もいる。クラッシャーとして人間関係をかき混ぜながら。(うちの母の様に)
発達障害であれば障害者として認定され、支援法まであるのに、発達障害があってもなくてもこんな障害状態が作られる愛着障害に対し、同じように障害者として認定し、支援法を作って欲しいと、2年前の虐待防止のイベントでも訴えましたし、ずっと願っています。
また更に、現行のしくみで解決ができないのであれば、加害者・被害者両方への心理教育と個人課題の解決を目標に個別カウンセリングは必須。
そんなことを色んな場所でいつも訴えています。
自身の現状把握とその原因を知り、暴力と愛情のそれぞれの認識を深めながら、暴力の責任の所在は自分ではなかった、自分には非が無かったことを自覚する。
そしてこれまで感じたことが無いことを、丁寧に感じていく。
無かったことにした負の疑問や感情を、一つ一つ丁寧に昇華していく。
これからも自分の力で、時々湧く負の疑問や感情を適切に処理し昇華していく。
グラデーションはあるにせよ、絡まり続けてほどけなくなった毛糸玉のように、これだけおかしくなってしまった日本全体のヒトの心理は、気づいた時点できちんとした修正をかけ、それを丁寧に続けることで癒され、そしてやっと「暴力は選択しなくても愛情に替えるだけでよかったんだ」を実感できるようになるでしょう。
暴力は自分で選択しているもの。
でもそもそも暴力って何?ってところから、学ぶ必要があるようです。
誰もが自分の尊厳を感じる権利がある
どんな理由があっても、誰かを蔑ろにする権利のある人は、この世のどこを探してもいません。
そしてどんな理由があっても、誰かから蔑ろにされる義務のある人もこの世のどこを探してもいません。
何が暴力なのか
何が愛情なのか
そしてその境界線を引くことができれば、自分の尊厳をしっかりと感じることができるし、そこからこれまでに発揮できなかった本当の自分の能力を、自分の力で発揮していくことができる。
誰にも邪魔されない、侵害されない自分、
自分は大切だよね。誰からも愛されるべき人間だよね。
そういう尊厳をまだしっかり感じられていない人たちは、侵害する人からすぐ逃げていいんだよ。
「避難」と「自分の人生から逃げる」とは違う。
誰が何を言っても、自分の精神状態を悪化させる言葉は聞かなくていい。
自分の身の回りに、心地よいと思える人だけにしていく。
自分の心地よさを感じていいんだという当たり前のことをやっていこう。
「蔑ろにされている」と感じるならば、「自分は蔑ろにされない自分になる」と決めよう。
蔑ろにする問題は、蔑ろにする人の解消していくべき問題。
それを受け入れる義務はどこにもない。勇気をもってお返ししよう。
それは、当たり前の権利として許されてるよ。
それを丁寧にやっていくことが必要な段階の人が沢山いる。
そしてそれを知らずに無視して、徹底的に攻撃する人もいる。
全然聞かなくていいから。
生産性のある議論は、そういう人とは絶対できないからね。
エネルギーを奪いつくされるのは、もうやめていいよ。
自分は自分の人生を、好きなように生きる権利がある。
自分を大事にするやり方も、一人じゃできない。
自分を愛し、そんな自分を愛してくれる誰かと一緒に、
「自分は大切だよね、誰からも愛されるべき存在だよね」
これを確立していこう。
攻撃する人たちとは、全く別の世界で、自分の心理的安全性を守り合っていこうね。
すべてのこどももおとなも、生きやすい社会へ
一般社団法人こどもぶらんでぃんぐ・らぼ 代表理事
加藤クミ子