醜さの中にも確かに存在する美しさを拾い上げることのできる人間でいたい。
ハロー皆様ごきげんよう。
いかがお過ごしでしょうか。俺は些か、心が弱まっているところです。
以下、魂が引き絞られているときの喘ぎとして、失礼。吐き出させていただきます。
人間の醜さに打ちのめされるのはどうにも慣れない。
俺は根幹の部分で人間が嫌いだ。昔から厭世観の強い子供であった。
人間そのもののことが嫌いだ。憎んでいるとも言えるかもしれない。人間とは皆愚かだし、醜い生き物だ。と心から思っている。自らも含め、そう思っている。
人間とは醜く、酷く愚かで可哀想な、可愛らしい生き物なんだ。と、なんとか飲み下して生きている。この世に生をうけてから四半世紀も経っていないが、そうしてなんとか生きている。
愛は知っているし、抱いている。家族へ向ける感情は間違いなく愛だろう。好意を抱く他人もいる。きっとこれは恋慕だろうと知っている。しかし、底のところでは嫌悪を抱き、憎んでいる。対極のようで、それでいて両立している感情だ。矛盾にも思えるかもしれないが、非常に人間らしい感情だと納得している。
ホモサピエンスが嫌いなわけではない。好ましくないわけではない。ただ、醜い。生きている人間は特に。だから人間を嫌悪している。何を言っているんだ?今度こそ矛盾しているぞ。と思われそうだが、俺の中では理論が為っているので許して欲しい。
俺は、俺自身がこの世に産まれ落ちたことを恨んでいる訳ではない。ただ、人間皆に可哀想に。と思っている分、生に対する憐れみというものはあるかもしれない。
まぁ、お釈迦様も現世は苦行と言っているし、いずれこの身も涅槃に入るか氏神様の元へかえるからそれまでの暫くだ。一片も恨みやそれに類する、この世に産声をあげた後悔や悪感情などはない。
先祖をはじめとして紡がれてきた歴史は尊いと思っている。
俺は歴史が好きだし、祖先たちが過去に紡いできた歴史たちは尊いなと思う。連綿紡がれてきたそれぞれは愛おしいし、とても素敵だと感動すら覚える。
ホモサピエンスも生物として興味深いと思う。
他者への愛も、隣人愛も知っている。
けれども、そもそも根幹でホモサピエンスという種が生まれたことそのものを間違いだろ。と薄らと根底で迷いなく思っているし、人間は醜いし愚かだから嫌いだとも思っている。
俺は醜いものが嫌いだ。愚かなものも嫌いだ。可哀想で嫌いだ。
しかしながら可哀想で可愛いのだ。可哀想だから可愛いのだ。という呆れた感情がこの身にあることもまた事実だ。
人間なんて皆消えてしまえ、消えてしまって構わないとすら思う。
しかし、俺は人の美しい部分を知っている。世界の美しさを知っている。
満開の桜が風に吹かれて川へ散り流れて行く空気の柔らかさを知っているし、雨粒がお気に入りの傘を叩き、流れ落ちる静けさや、夏の狂おしいほどの熱気の中、陽炎の向こうで咲き誇っている向日葵の眩しさを知っている。秋風が一人駆けるように髪を揺らして吹くときの涼やかさや、冬のツンと冷えた日にひそりと生まれる霜柱の可愛らしさを知っている。
何色が咲くかと今から楽しみなんだ。と芽が出たばかりのチューリップへ向けて綻ぶように溢れた笑み。燦々と照りつける夏の陽射しの下、麦わら帽子を被って麦茶を仰いだ横顔。落ちて潰えた銀杏を踏まないように跳ねながら手を繋ぎ駆け抜けた並木。微かに降った雪を模して作った紙製の雪の結晶。
人間なんて、己も含め(己を念頭に)どうしようもない醜くて愚かで汚ならしさすら感じさせる生き物だと思っている。
けれども、関わってきた人間、共に彼らと紡いだ思い出、確かに過去そこに存在した美しい景色たちを、俺は知っている。
そして、俺が家族へ愛を抱き、他者へ恋慕を抱き、ネット越しの顔も知らぬ人間を思い感情を揺らしているのも、憎みきれていないその事実に他ならない。
醜さや愚かさの中にも美しさがあることを、俺は知っている。
醜さや愚かさは変わらないけれど、その中に一抹の美しさが輝くこともまた真実であることを知っている。
人のもつ醜さ愚かさも含めて愛していきたい。全てを愛せずとも、輝く全てを拾いきることはできずとも、本当にたったの一瞬の閃光のような輝きであったとしても、見つけた、見つけられた手にできた、その美しさを大切にしたい。慈しみたい。
その刹那の煌めきを忘れ、打ち捨てることなく、持てる限り胸に抱いて生きていたい。
これもまた、俺の中にある、抗いようのない願いそのものである。
全てを愛することはできずとも、一瞬があれば。人生というメモリで見れば、ほんの瞬きほどの、一コマ一シーン程度の一瞬であっても良い。
例え泥中の中で珠玉を手探りで探すような困難だったとしても、その煌めきの存在を願い生きていたい。
醜さの中にも確かに存在する美しさを拾い上げることのできる人間でいたい。
さて。どうせ暗い感情に落ちるならば落ちるところまで落としてしまえ。その方が、暗い感情に浸り尽くすことで却って心が落ち着き、癒しに繋がるだろう。という吐き出しも兼ねて綴らせていただいた。
絶望したならば、絶望に浸るのも良いんじないか。と掛けられた言葉の優しさに、確かに、と。気分を無理に変えようとて鬱屈は消えず静かにチリチリと身の内で燻るなら。耐えられぬ感情を無理に耐えるならば。声にならぬ言葉ごと。ここへ、無理なら無理と、吐き出し尽くしてやろうと思った次第であった。
頭の中をぐるぐると渦巻き巡る苛立ちや悲しみといった負の感情を整理するのに、noteはきっと適していると思ったからだ。
書き始めてみればあっという間だ。気が付けば2000字を越えていたらしい。中身はそこまで無いはずなのに、随分と書いてしまった。
これは、あくまで俺は。だが。
もしこのnoteを読んでくれているあなた。あなたは今、どんな感情に暮れているのだろう。
こういった厭世観に関わる話をする機会にあえたことが、俺は中々なかった。あなたはどうだろう。どんな感情を抱えているだろう。厭世観を持っているか。それも俺には分からない。
しかし、こうした俺の文章を通じて。この文面を通して、部分的であれども感情などを共有出来たならば、俺がそうであったと同じように、もしかしたら世界に対して孤独ではないと思わせることができたなら。少し息のつまりが緩めることができたなら。
そうしたならばこの2000と500の字たちと共に俺もまた、報い救われるような心地がするだろう。
あぁいつか、この魂を絞り出したようなこの祈りに似た文章たちをイタイと感じる日がくるのだろうか。バカだなぁと笑い飛ばせるようになっているだろうか。
数年後のことなど分かりもしないが、未来の自分がどう思うにせよ、まずはなんとか生きていたい。
読んでくださり、どうも本当にありがとう。
どうか、あなたの身を襲う憂いが。悲嘆に暮れる日々が、僅かでも少なくあることを。涙の中で溺れるように眠る夜が少しでも短くあることを、心の底から願っています。
あなたの行く先が、幸せで溢れていますように。