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Honey! Darling! と呼びかけながら、激烈な喧嘩を繰り広げるカップルの横で思うこと
ひょんなことから、英語を母国語とする欧米人カップルの喧嘩のさなかに居合わせた。きょうは、そんな喧嘩を聞きながら、自分の中の精神構造が『言葉』で常に確認しあう欧米人の文化にはなじめないなーと思った話。
子供の学校の行事で出す料理を作るのを手伝ってほしいといわれて、ある家に行ったときの話。
この家には、すこぶる料理が上手で情熱があり、でもワンマンで怒ると怖いことから、『将軍様』という隠れたあだ名を持つ、オーストラリア人の旦那がいる。4人の子供の居るこの夫婦。共通の趣味は料理。なんでも、シーフードレストランで知り合ったときの彼女の食べっぷりが豪快で、料理好きの彼の心を射止めたという。
この日は、『将軍様』の機嫌が良くなかっったらしく、珍しくキッチンに彼の姿がない。彼の味付けと料理の腕に一目をおく妻は、それでも料理の仕上げのときに、わざわざ「味見をしてほしいので」と『将軍様』を呼んできた。
(子供の学校のバザーのような場所に出す料理に、ココまで気を使うものか・・・とはために見ながら思った)
彼の不機嫌を察しながらも、始終『Darling』『Honey』とか呼び合いながら、何とかコミュニケーションをとろうとする妻。しかし、だんだん雲行きが怪しくなってくる。
そして、はっきりと声のトーンが変わり、感情レベルでは相手を攻撃しあうパワーゲームが始まっているのに、まだがんばって『My dear』とか『Darling』と半ば顔をしかめながらも呼び合っている。
そして、最後にぷっつりと我慢の糸が切れて、妻が叫ぶ。
『もういいわ。わかったわ。あなたが、私に協力したくないこと。そんなに私をいじめるなら、とっとと目の前から消えうせて!ココからいなくなって!』
そこで『Honey』こと、夫君。
『おいおい、誤解だよ。誤解!君は、誤解しているよー。オレは、そんなこといっているんじゃないんだよー。』と。この夫君。日ごろは周囲を震撼させる勢いと語気で反撃にでるのだが、このときは、私がいたので、ひとしきりぶつぶつと妻にだけわかる当てこすりをいって、その場から出て行った。
彼ら、欧米人が、パートナーや恋人のことを、『Darling!』とか『Honey』とか『Sweetie』とか呼び習わしていることは、一応、知識として 知っている。
しかし、である。ずっと、違和感が付きまとうのである。そういいあっている彼らがあまりに楽しそうではない・・と見えるときが、多々あるからさー。
叫びだす直前まで、相手を『ダーリン』って呼び合わなければいけないルールって、なんだかしんどそう。
そもそも、日本の文化では、相手に呼びかけるときに、主語が省略されることがごくフツーにあるだけではなく、身内を人前でほめたりするのは、謙遜を美徳とする日本の文化では、相容れない。
初めて海外で、暮らし始めたとき、仲良くなったご近所さんに聞かれてお互いに驚いた。
”あなたは、自分の夫のことを名前で呼ばないときに、なんて呼ぶの???”
”ええ??名前で呼ばないことは多々あるけど、そのときは、「ちょっと」「あのー」とか、「えーー」って感じです”(と私。)
”Daling』とも『My dear』とも『Honey』とも呼ばないの・・・!?” (相手は、明らかに絶句に近い驚き。)
このとき、特に夫とは、心理的な距離がかなり関係が遠ーくなっていたので、改めて、そんな呼び合う言葉さえもないわよねー。としみじみ寂しく思ったものだった。しかし、しかし・・・・なのである!!!
洋の東西を隔てているとは言え、お互い、男女の仲の不確かさとか、そこで繰り広げられる 心の根っこのパワーゲームなんて、やっぱりあんまり違わないってことに気がついたのだ。
では、何が違うのさーーー!!??
日本には、『秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず。』なんて言葉がある。
あからさまに見せてしまうのではなく、秘めた思いを隠し、敢えて想像させて、見るものの想像力を掻き立てて伝える。持って回った精神的な回路だ。
『人の思い』は見えないけれど、在ることを前提にした回路である。 深遠なる世阿弥どのが秘伝の書をしたためた時代から、時代を経て困ったことにこの回路は少し退化した。 「言わなくてもわかってよ!」「それぐらい分かれよ!」「それって当然でしょ!」言葉にしないのに、わかってよ・・・!の甘えの構造に。
では、何で『Darlin』と呼び合う、彼らの世界では、そんなにがんばって言葉で呼び合うのだろう??
『はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
言葉は神と共にあった。』
聖書の冒頭の言葉であるが、彼らの世界は、神の言葉で始まったことになっている。
言葉で定義することによって、世界が作られ、万物が創造され、世界が成り立っている・・・・。 となると男女の日常の些細なことも、「言わないと分からない」「表現されていないことは、存在しないも同然」「関係は確認しあわなくてはならない」etc ・・・・・。『ダーリン文化』への違和感、案外、欧米人の無意識にまで落とし込まれた『神とともにあった言葉』への脅迫観念があるのではないか?
つまり、お互いが『Honey』だ、『Darling』だと呼びかけあい、現実と思いとのギャップを埋めようと『ギリギリまで努力しあう』のがよきパートナーとしてのあり方である・・・、みたいな呪縛・・・!?
そりゃー大変そうにも見えるよな。やっぱりって、変なところで納得した次第。
うーん。。。。
何か自分に不都合な事態に出会うと『わかってよー』とばかりに、言葉を放棄して貝になってしまう日本男児も困るけど・・・・。
やっぱり私は、戦闘モード丸出しになっても、『Darling』だ、『Honey』だと呼び合う精神構造は持ちえないんだと、気づかされた。
ちょうど、中間のいい具合、ないかしら・・・?気づけば、齢、50を目前。遅すぎたか!?(爆笑)