最期の1日
忘れないように最期の1日を書いておこうと思う。
令和2年5月3日16時45分祖父が亡くなった。
5月2日
「寒いからストーブつけてくれないか?」
これが最期に聞いた言葉だったかもしれない。
母は「寒くなんかないでしょ、ストーブなんかつけて火事にでもなったら困るし」
と拒んでいた。
だけど私はその時何かを感じた。
もしストーブをつけないでこのまま最期を迎えてしまったらすごく後悔するんじゃないかと…
虫の知らせみたいな何かを感じたので私はストーブをつけて、電気毛布も出して暖かくなったら安心して祖父は寝ていた。
おじいちゃんが頼み事をするなんて事は滅多にない。
いつも自分一人で何でもやっていた。
足腰が弱ってきても手を貸そうとすると
「離せ!」
と強い口調で言い歩行が困難になってきても家の中で歩く練習をしていた。
転んだりしたら大変だしと心配していた。
だけどその姿は私の目に焼き付いた。
家の中で靴を履き壁を伝い歩きで危なかっしい感じだった。
家の中で靴を履くなんてとうとうボケてしまったのかなと思ったのが5月2日の事だった。
だけど今思えば最期まで生きようとする力強さを私の記憶と目に焼き付かせた。
大正15年生まれ
95歳
免許返納したのも今年の3月の事だった。
足腰が弱るまでは車の運転もしていた。
だけど3月に車を廃車にし、免許も返納した方が良いんじゃないかと勧めた。
免許を手放す決心がつかないと少し手放す事に未練があるようだったけど、次の日には返納すると決心していた。
私が幼稚園の頃に親戚の結婚式に出席した時に祖母に言った事がある。
「大きくなったらおじいちゃんと結婚する!」
それを聞いて祖母は笑っていた。
祖父は照れ笑いをしているようにも見えた。
それ位、祖父母が大好きだった。
おばあちゃん子であり、おじいちゃん子だった。私の理想の夫婦でもあった。
平成24年3月24日
祖母が逝去した。祖父は一人で祖母の介護をしていた。4年間の介護記録も出てきた。
認知症気味の祖母の介護を食事を作り、洗濯、掃除、病院へ通院する送り迎え、デイサービスも利用し、その間に趣味の野菜作りをしたり。
献身的な介護は愛があってこそだとつくづく感じた。ヘルパーさんに自宅での介護をお願いするでもなく、家の事から祖母の介護まで全て祖父がしていた。
祖母が亡くなり、祖父が一人暮らしになってしまったのでその年の6月父の日に祖父と同居する事にした。
何かあってからでは遅い。
祖父一人では心配でもあった。
一人で何でもしてきた祖父だけど、いつかは旅立つ日が来てしまうからその時に後悔したくはなかった。
8年近く一緒に暮らしていて色々な事を学んだ。漬物の作り方からタイヤ交換、法事について、近所付き合い、趣味でやってる畑での種の撒き方から収穫まで、祖父の生き方、考え方を身近で学べた。
始まりがあれば終わりが来る
いつかは…
と別れを覚悟はしていた。
そして丁度8年目の父の日
令和2年6月21日
49日の法事を迎えた。
「旅立ちの日なので行ってらっしゃいと後押しする気持ちでお焼香して下さい」
と和尚様がおっしゃっていた。
きっと天国で祖母と一緒に仲良く楽しくしているんだろうなぁと思った✨
あの世には何も持っていけない。
この世での地位や名誉や財産や全てこの世のものである。
だけど、人が旅立つと生き様が記憶に残る。
この世でどう生きるのか、どう生きていきたいのか、残された者だけが考えさせられる。
後悔や未練は残したくない。
常に全力で、時には立ち止まり
一生懸命生きていきたい✨
いや、生かされている今に感謝です。