Review 1 ホカホカ
本を読んでいる途中から感想文を書きたくなることは、滅多にない。私はせっかちだが、本はたいてい、読んでから感想を書く。でもこれはまだ途中だ。途中だけれども、書きたい。初の試みだが、読みながら書こうと思う。
おそらく著者の岸田奈美さんの語り口に絶妙な親近感があるからだと思う。つい心が「お返事」してしまうのだ。
『もうあかんわ日記』は、大変な出来事のオンパレードだ。オンパレードという言葉を久しぶりに思い出したし、久しぶりに使ったが、それしか表現のしようがない。とにかく、ひとつでも自分の身に起こったら間違いなくパニックになる出来事が、若い岸田さんの身に次から次へと起こる。
起こる出来事のひとつひとつは特別なことではないのかもしれない。誰もが経験しうるようなことだ。しかしそれが、同時にひとりの身に、疾風怒濤の勢いでやってきている。お母さんの手術(それも珍しい病気の大手術)、認知に問題が出始めているおばあさんの引き起こす出来事、ダウン症の弟さんの自立への試行錯誤、わんちゃんたちの騒動、そして信じられないほど煩雑で四角四面な公的サービスの手続きや面倒極まりない業者とのやり取り。まして世の中が新型の感染症で右往左往する中で、だ。
岸田さんは大黒柱なので、仕事をしている。お仕事をしながら、これらのことに対処しなければならない。マルチタスク、八面六臂どころの騒ぎではない。気絶寝するほどの窮地だ。
岸田さんはチャップリンの名言「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」をもじって言う。
わたしことナミップリンは「人生は、ひとりで抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」と言いたい。(中略)ユーモアがあれば、人間は絶望の底に落っこちない。
そして「同情はいらない。やるべきこともぜんぶわかっているので、家に駆けつけて手伝ってほしいわけでもない。ただ、笑ってほしい」という。
私はオバチャンなので「あらぁ。まぁ。タイヘン」などとつい内心で相槌を打ってしまう。でもその心のつぶやきの何倍か、笑っている。クスッと笑ったり、クククと笑ったり、たまにアハハと笑ってしまって自分でびっくりした。
申し訳ないけれどそれなりに年を取っているので、箸が転がってもおかしい、というような笑い方はできない。私の笑いのハードルは高いと自負している。お笑い番組を観ながらテレビの前で「おーしかかってこいぃ!」となぜかイキってるクチだ。文章が素晴らしく上手いうえに桁外れに巧みな比喩が、ピンポイントでツボにハマりまくる。
孤軍奮闘する岸田さんがどこかで思っている「たしかにしんどいけど、これはこれで、おもしろいよな」は、もしかしたらモノを書く人には特徴的なものなのかもしれない。作家の業、かもしれない。かの岸辺露伴も東方仗助にドラドラされながら、すごいネタだぞ!と笑っていた。
書くことは人を救い、そしてそれを読む人も救われる。人によっては言うのかもしれない。認知症気味のお祖母さんを、ダウン症の弟さんを、手術をした車いすのお母さんのことをそんな風にとか。でも読む人はちゃんとわかっている。ユーモアにこそ、岸田さんの深い深い海のような愛があることを、ちゃんと受け止めている。なんならもうそこには愛しかなくて、笑いながら涙が出てしまうのだ。出版社の方が「本で読みたい。手元に置いておきたい」と言った気持ちがよく分かる。
悲しいことを悲しく表現するよりも、辛いことを笑いに変えるのは何倍も大変だ。物事を相当俯瞰して見ないと、飲み込まれてしまう。
でも、ふと顔を上げれば、テレビやスマホの画面にも、窓から見える景色にも、ほかの人にとっては日常でしかない日常が流れてる。/キツイ。自分の心とかけ離れてる日常って、めちゃくちゃキツイ。
大事な人を亡くしたり、突然の出来事にショックを受けた経験があると、特に心に刺さる。このときの岸田さんは、お母さんの手術の間、このご時世のために病院にいることも許されず、ただひたすら成功を祈って部屋でひとり待ち続けていた。
もうひとつ刺さったのは「他人のためにやることは全部押し付け」の中でご近所の人から岸田さんが言われた言葉だった。どんな時でも書いて来た岸田さんが原稿が書けなくなったのも頷ける。
実は我が家の息子はちょっとした難点を持って生まれてきた。「息子さんのこれは、どうされましたか?」みたいに必ず聞かれるが、命にも機能にも別条はないし、生きていくのに何も困らない。ただ、初めて会った人は少し気になる、という程度のことだ。説明すれば皆、すぐに納得してくれるし、長い付き合いでも「まったく気づかなかった」と後で驚く人もいる。
岸田さんの文章を読んでいたら、何度も同じ場面がフラッシュバックした。
かつて、幼稚園の見学に行ったときのことだ。園長先生から「何か園に言っておきたいことなどありますか」と聞かれたので「医師に問題はないと言われているけれど、軽い先天性の問題があるので気に留めておいてもらえたら」と言った。すると「うちでは段差や障害物をわざと避けずにおいてあります。それに躓いて転んでも、それが学びだととらえています。だからあなたのお子さんを特別扱いはできません」ときつめの口調で言われたのだ。
「特別扱いしてほしい」なんて言っていない。びっくりして、それほど年配でもないがそんなに若くはないのにツインテールにしている園長先生の顔を呆然と見た。心が反射的に「怒」「悲」「否」と漢字で反応していた。「特別扱いしてほしいなんてひとことも言っていません。気に留めていただければと思っただけで」と言いたかったが、言葉にならなかった。そんなつもりは全くなかったが、私の言い方が悪く、特別な庇護を求めているような誤解をさせるものだったのかもしれない。黙って帰宅した。
今回岸田さんの本を読んで、自分があの時のことを気にしてたんだなと気づくと共に、岸田さんの経験してきたことに比べたら全然大したことなかったな、と、何かひとつ荷物をおろしたような気持ちになった。
岸田さんは、それ以上のことを、沢山言われ、経験し、それでもそう言った人の背景や事情を慮って、決して責めたりしない。それはどんな場面でもそうで、役所でブチギレしそうな対応があったとしても、職員の彼も一生懸命働いているんだからとむしろ気遣う。たとえ心がくじけそうな場面があったとしても、
ツッコミを。ツッコミを忘れてはいけない。どんだけだけしんどい日でも、アホバカボケ!と感じたら、すかさずツッコミを入れていくしかない。
と、言う。
おそらくは私には想像もできないほどの、ユーモアにもできないような辛いことが、語ることのできない悲しみが沢山あっただろうに、と思う。
さあ。読み終えた。
ツボに入った話が多すぎて書ききれないが、ハトとの闘いは私もnoteで書いたことがある。そしてこれも、私の戦いなんて甘かったとしみじみと思った。
また、バリアフリーやユニバーサルデザインが「誰にとっても便利で快適で安心なもの」ではなく「前向きなあきらめと、やさしい妥協と、心からの敬意があるもの」というのにはハッとさせられた。
知らないと、どうしても一面的にしか捉えれないことがある。岸田さんはそこに経験からの、そして思いがけない方向からのアイディアを提案してくれる。
飼っているわんちゃんの画像を使ってお母さんを励ますくだりでは面白いやら感心するやら感動するやらで、こんな風に家族を笑わせて励ますことができるなんて、すごい、と心から思った。
noteで岸田さんのクリエイターページを見ることができた。岸田さんのご家族の写真も拝見した。
無性にコメントを書き込みたくなったが、これは読み終えたばかりの興奮というものだろう。もうちょっと冷静にならなければと思い、いっぽうで、冷静にならない熱いホカホカの状態で、この感想文を出そうとも思った。
ホカホカですみません。
この本に出会えて良かったです。巻末のアロエリーナ(※)の皆さんからは遅れをとって、後からの参加ではありますが、こんな私でよかったら、アロエリーナでいさせてください。
※アロエリーナ=昔アロエに歌を歌うアロエリーナという食品のCMがあった。岸田さんが「あのCMのように、辛いことをアロエに聞いてほしい、読んでくれる読者の皆さんはアロエリーナだ」と言ったことから岸田さんのフォロワーさんのことを指す