「ないたあかおに」と承認欲求
以前、こんな記事を書きました。
最近、「ないたあかおに」のことをよく思い出します。
あらすじは上の記事に書いたので、ここでは割愛します。
青鬼の犠牲や献身により、赤鬼は村人と仲良くなれたわけですが、常に「青鬼の犠牲や献身」のほうに目が行ってしまい、そもそも赤鬼が
「なぜ村人と仲良くなりたかったのか」
ということをあまり考えたことがなかった、と気づきました。種族も違えば自分を恐れて近寄ってこない村人たちと、どうしてまた。
確かに悪役を買って出た友達思いの青鬼の友情や自己犠牲は哀しくも美しいし、「外見だけで人を判断しないで」というルッキズムの問題や、「人となりを知ってもらい話をして分かり合えたらきっと世界中のみんなが仲良くなれる」という多様性のメッセージにも受け取れます。
いろいろな読み方ができるのが絵本の魅力ですが、このところ気になっているのは赤鬼のその「願望」についてです。
心の優しい赤鬼はお茶やお菓子を用意して、村人が来てくれるのを待っています。立て看板なども用意して、村人の目につくところに置いたりもしています。
でも、待っていても誰も来ないし、声なんかかけようものなら鬼の恐ろしい姿を見ただけでみんな逃げ出してしまいます。
赤鬼はついに腹を立ててしまい、立札を引き抜いて壊してしまいます。
そこにやってきた青鬼は「ぼくが村人を襲うからきみはぼくを殴ってやっつければいい。村人はきみに好感を持つだろう」という、心理作戦を提案します。
つまり、AとBというCにとって好ましくない2人がいた場合、BがCにとって好ましくない態度をとりAがBを排除することで相対的にAという存在がCにとって「良いもの」になる作戦です。
いわゆる「よい警官・悪い警官」。しかもBの暴力性が高ければ高いほど、それを制圧したAの信用は増します。
赤鬼は天然というか無邪気で、そうした作戦をとることで青鬼がどうなるかを予測できず、結果的に自分のせいで青鬼がこれまで住んでいた場所から出ていかなければならなくなったことを知って、後悔します。つまり、自分の願望のために友達を追い出してしまうことになってしまったわけです。
どうして赤鬼はそんなにも「村人たち」と仲良くなりたかったのでしょう。心の友である青鬼がいても、孤独なのでしょうか。そうまでして「村人たち」とお茶やお菓子を飲んだり食べたりしながら語り合いたかったことがあるのでしょうか。
しかも赤鬼の場合、村娘に恋をしたから、というような特定の人物と仲良くなりたい願望ではありません。はっきり言えば村人なら誰でもいいわけです。おそらく、できるだけたくさんの村人と仲良くなりたい、と、赤鬼は思っていたと思います。
自分の存在を認めてほしい、仲良くしてほしい。
仲間にして欲しい、楽しく語り合いたい。
これは承認欲求そのもの。
承認欲求は、昨今悪く言われることが多いですが、すべての物事がそうであるように悪い面だけではありません。必要なこともあります。承認されたい欲求があればこそ頑張ったり努力したりすることもできますし、それによって自信もつきます。人はみんな、心の中にそういう部分を持っています。
しかし、気づかぬうちにそれを過度に増大させると、大切なものや人を失うことにもなりかねません。
赤鬼が村人の信用や信頼を強く欲したように、人間の価値を計るのに「その他大勢の村人」が必要なのが現代社会なのかもしれません。そして自分もまた「その他大勢の村人」でもあるわけです。SNS全盛の現代、フォロワー数が多いほどよく、インフルエンサーがものを言う時代、とも言われます。就活の際人事が参考にしているらしいなどという噂を聞くと、なんとも落ち着かない気持ちになります。
いつまでも きみのともだち あおおに
青鬼の別れの手紙にはそう書いてありました。
「青鬼」が人物とは限りません。
それまで自分がとても大切にしていたものかもしれません。
この「ないたあかおに」は、ラストがもやもやするということで、お話の続きが沢山考えられている、ということは前回の記事にも書きました。
赤鬼ひどい、青鬼可哀そう、と言うものが多いようで、また別の敵が現れることで青鬼を取り戻す話などもあるようです。
で。
私もちょっと考えてみました。
青鬼から見た物語。
うん。
青鬼はちょっとホッとしていたんじゃないかな。
不思議なことにその思いは、最近日増しに強くなっています。