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専業シュフは絶滅するのか

 noteには、仕事とは何か、はたらくとは、ということを問うお題が多い。

あなたにとって、仕事とは。
私にとって、はたらくとは。

 こういうテーマを見るたび、私はいつも落ち込んできた。

 なぜか。

 私が今現在、第3号被保険者だからだ。

 2号に扶養されている家族。

 つまり、専業主婦だからだ―――ッ!
(叫ぶほどの事ではない)。

 こんな自分は「仕事」というお題では記事を書けないな。
 被扶養者が「はたらく」を語っちゃいけないだろう。

 そう思い、ずっとスルーしてきたのだが。

「天職だと感じた瞬間」であなたの“仕事への思い”を募集します。

 私は主婦を天職だと思ったことは一度もない。
 
 ―――一瞬にしてお題が雲散霧消。
 終わった。 
 いや、ここで終わるために書き始めたのではないのだ。

 「天職」について調べてみると、こうある。

てんしょく【天職】
  ①天から命ぜられた職。
   ㋐天子が国家を統治する職務。
   ㋑神聖な職務。
   ㋒その人の天性に最も合った職業。
  ②遊女の階級の一つ。天神てんじんの別称。
『広辞苑』より

 このお題の場合は、当然「㋒その人の天性に最もあった職業」ということになるのだろう。今の仕事が自分の「天性(もとから備わった性質)」にフィットしている、と感じた瞬間がテーマだ。

 私は母親が専業主婦だったので、専業主婦という生き方もありなんだろうなとは思っていたし、昭和の小学生の卒業文集などには「将来の夢、お母さん」と書く少女も中にはいたと思う(実際に確かめていないが)。

 しかし最初から専業主婦になりたくてなったわけではない。
 人生の途中でなんやかんやあって、気がついたらなっていた、ということも多いのではないだろうか。
 少なくとも私の場合はそうだった。

 主婦業が天性にあうとも、天職とも思えない私が、「専業シュフ」をあえて語ろうとするのは、専業シュフという存在の持つ両義性と可能性に興味があるからだ。

 この場合の両義性、というのは、専業シュフは「はたらいている」、とみなす人と、「はたらいていない」、とみなす人が両方いる、ということ。

 収入の有無で言えば、収入はない。が、すべての家庭内の仕事を外注した場合、家計から多額の支出が発生することを考えると、それ相応の仕事はしている、ということになる。

 その内情は千差万別。介護や育児で自分の時間が全くない人もいれば、副業やパートの仕事を持つ人もいる。
 子育てが一段落してのんびりテレビをみたりお茶やランチに行ったりする人もいれば、神がかりなスキルでSNSのフォロワー多数というカリスマもいるので、仕事内容を一律に測れない。
 クオリティーもピンキリだ。

「仕事への愛やこだわりを、徹底的に語るもの」という募集要項には多少触れているが、私は別に「専業主婦でよかった~」「専業主婦サイコー」などとは思っていない。

 ただ、今はこれしかできないし、これが仕事だと思っている。

 これは長年の「お蔵入り記事」だ。
 投稿することを想定せずに書いたものだが、このお題にあわせ、加筆して出してみることにした。

 1万字超えと大変長いので、確実に昼休み中には読めないと思うし、「さすがに長いな、まあちょっと読むのやめとこか」と思うかたもいるだろう。

 特にフォロワーのみなさま。
 いつも読んでくださって本当に感謝しております。
 この記事は、読まなきゃと思わずにスルーしていただいて構いません。

 あらかじめお詫び申し上げます。ごめんなさい。

 では、いざ。

***

 この40年で、世の中はこんな風に変化している。

厚生労働省HPより


 1990年から2000年の10年くらいは横ばいの「端境期はざかいき」だったが、急速に共働きが増え、専業はいまや絶滅寸前であることがわかる。

 1980年には1100万世帯を超えていた専業主婦世帯は、2020年でついに571万世帯。まさに大逆転だ。フネさんもサザエさんもビックリ。

 ちなみに、専業主婦がニートとフリーターといった若年層の未就業者とどこが違うのか、というと、厚生労働省の定めるニートの定義はこうだ。

Q.ニートの数はどのくらいですか。また、ニートの定義は何ですか。
A.ニートの数は、平成21年は約63万人で、総務省が行っている労働力調査における、15~34歳で、非労働力人口のうち家事も通学もしていない方を、いわゆるニートとして定義しています。
厚生労働省HP「よくあるご質問」より

 ちなみに、フリーターの定義についても、同じく厚生労働省の資料にあった。

 フリーターの定義は、15~34歳で、男性は卒業者、女性は卒業者で未婚の者のうち、以下の者の合計。
1 雇用者のうち「パート・アルバイト」の者
2 失業者(※)のうち探している仕事の形態が「パート・アルバイト」の者
3 非労働力人口で、家事も通学もしていない「その他」の者のうち、就業内定しておらず、希望する仕事の形態が「パート・アルバイト」の者
(※)平成30年より、「完全失業者」(1週間以内に求職活動を行った者)から「失業者」(1ヶ月以内に求職活動を行った者)に変更。これに伴い、非労働力人口の範囲も変更。
厚生労働省HP「若年者雇用対策の現状等について」資料より

 では、専業シュフはどう定義されているかというと、最初の図表の下に、定義が明記してある。

 「専業主婦世帯」は、夫が非農林業雇用者で妻が非就業者(非労働力人口及び完全失業者)の世帯。2018年以降は、厚生労働省「厚生労働白書」、内閣府「男女共同参画白書」に倣い夫が非農林業雇用者で妻が非就業者(非労働力人口及び失業者)の世帯。

 共働きの定義も同じ場所にある。

「共働き世帯」は、夫婦ともに非農林業雇用者の世帯。

 専業か共稼ぎか、をわけるのは、つまるところ「就業・雇用」。
 そしてこれらの資料を見る限り、「家事」は仕事として認識されている

 ちなみに、上の資料等では、専業主婦は女性であり「主夫」は想定されていないようだ。これだけ女性が就業して世帯主でもある家庭が増えたので、今後は変わっていくのかもしれない。また、35歳以後の未就労者については名称がないことは、初めて知った。


 思えばこれまで、正社員でこそなかったが、私もいろんな企業のいろんな職場で働いてきた。
 そこからの学びについても、仕事への思いや捉え方も、書こうと思えば書ける。

 がしかし。
 滅びゆく専業シュフについて、多少なりとも思うところがある。
 今日はそれを書いてみたい。

内閣府男女共同参画局サイトより


 こちらのデータは、女性の就業に関する男女の意識に関するデータだ。
「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」。
 1979年の「賛成」の多さに驚く。

 厚生労働省HPには年代別のもう少し詳しいデータがあり、この件に関して30歳未満の人には、賛成・反対についての顕著な差は見られないということだった。若年層にはすでにこの問いの意義さえ感じられないということかもしれない。

 過去、社会が慣習的に専業主婦(この場合は主婦)を求めた時代が確かにあったのは間違いない。これは少なくとも、男女の意識とともに、社会全体が女性の雇用について厳しかったからという側面が否めない。

 今の若い人の中にはむしろ専業シュフに憧れる、という人もいるそうだ。
 仕事もせず家で遊べて楽だから、と。
 「専業シュフ」=「仕事をしない」=「セレブ」・「楽」という認識があるのだろう。

 実際、毎日遊んで暮らせるような富裕層が存在するのは事実だ。だからといって、そのレベルの主婦がみんな家にいるとは限らない。逆に言えば、子育てと介護を外注できるお金があるということでもあるから、仕事をしている率は高いかもしれない。

 しかし「憧れる」というのは、つまり若い人は、本当に専業シュフになるつもりも、なれるとも、あまり考えていないことの裏返しではないかと思う。

 生活していくには夫婦ともに働かないと十分な収入が得られない、ということもあるだろうし、女性だから結婚妊娠出産で仕事をやめなければならないという意識がもうない、ということでもあろうかと思う。

 このようなデータもある。

厚生労働省HP2018年統計白書より

 配偶者が高収入であればあるほど専業主婦率は高くなる、というデータ。

 専業主婦になるには配偶者の収入がなければならない。低収入であっても専業にはなれるが、より安定した暮らしを望むなら「高収入の配偶者と結婚する」という条件がつくことになる。子供が生まれればさらに一方の収入の負担は増す。また、税制上の問題もあって相手は日本国で婚姻できる異性でなければならない。

 しかし2016年からは、夫が高収入であっても、妻が就業しているケースが増加している。妻が結婚前の仕事を辞めなくてもよくなったり、夫が育休を取ることが増えるなど子育て後に就業できる環境が整ったこともあるだろうし、社会が子育て後のマンパワーを望み始めた、ということもあるだろう。

 2022年現在は、感染症の影響で、リモートワークの増加やその他の条件が加わり、状況はまた変化しているかもしれない。

 このデータは2016年までのものだが、実はこの2016年というのは意識の変革としてなかなかに重要な年だと思う。

 何か、変化が感じられるいい材料がないかと考えて、近年のドラマにおいて、専業シュフがどのように描かれているかを少し振り返ってみることにした。

『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年/TBS 原作:海野つなみ、脚本:野木亜紀子)森山みくり

 専業主婦を語るのに、これは外せない。
 2016年、人気絶頂の女優ガッキーこと新垣結衣さんと星野源さんの「契約結婚」物語。通称「逃げ恥」。ドラマでも恋愛に発展し、現実でもご結婚。エンディングの恋ダンスも話題に。

 みくり(25)は大学院卒の高学歴でありながら就職活動全滅。派遣社員として事務職に就いていたが突然の契約終了に無職になる。父親のつてでSEとしてIT企業で働く津崎(36)のところで家事代行のアルバイトを始めるが、実家が田舎に引っ越すことになり、勢いで津崎に住み込み家事代行=契約結婚の話を持ち掛ける。

 病気の時に看病されて「誰かがいる安心」に心が動いた津崎。最後の仕事の日、津崎はみくりに資料を渡しながら契約婚を提案し、給与金額を提示する。

 月額19万4千500円

 これを見たとき、全国の主婦はどう思ったのだろうか。
 潔癖で神経質な津崎を満足させるみくりの仕事のクオリティは相当に高いし、実力に対する評価として相応の加算があるにしても、月19万以上稼げる仕事は、なかなかない。

 『逃げるは恥だが役に立つ』はハンガリーのことわざで、「問題と向き合わずに逃げることは恥ずかしいことだが、時には逃げることが最善ということもある」という意味だそうだ。

「専業主婦」はこのときにはすでにオワコンであり、「逃げるという恥ずかしいこと」の象徴になりつつあった。

 ふたりは最初の契約で従来の結婚という形から逃げたのだと思うが、「逃げ」が役に立っていたのは最初のころだけで、恋愛関係になるととたんに様々なところからほころびが見え始め、二人は常に「常識」「世の中」「慣習」「当たり前」と戦うことになる。

 恋愛関係となり津崎が正式な結婚をしようとプロポーズした時に、従来のドラマならばそこでハッピーエンドとなるところが、みくりは「これまで私に払ってきた給与を、愛という名のもとにタダにするつもりか」「搾取だ」と言い切る。

 専業主婦が「仕事」であるためには、事実婚の上にしか成り立たない、と言うみくりに津崎は「そもそも(結婚は)雇用関係なんでしょうか?主婦も家庭を支える立派な職業。そう考えれば、立派な“共同経営責任者”なのでは?」と、新たな切り口を提案するのだ。

 津崎が若くして高収入だったこと、みくりが若く美しい女性だったこと、そういう不確定要素に支えられた奇跡的な婚姻ではあるが、このドラマの画期的なところは、かなり昔からあった専業主婦の見えない業務ステルスワークと給与換算を通して「結婚」の意義を問い直したこと、世の女性たちの働き方が変化し始めたことを写し取っていることだと思う。このドラマについては語りたいことは山のようにあるが、字数の関係上割愛する。

 放映は2016年。夫の収入が安定している専業主婦たちが急速に就業率を高めていった時期だ。まさに上記の「共働き世帯の推移」「世帯主・配偶者収入の推移と夫の収入階級別にみた妻の就業率の推移」のデータとも合致する。

『家売るオンナ』(2016年/日本テレビ 脚本:大石静)白洲美加

 家売るオンナの主人公、北川景子さん演じる三軒家万智は「私に売れない家はありません」という決め台詞のある数々の営業所に業績を残してきたキャリア女性だが、異動先の営業所に営業として在籍していたのが、白洲美加だ。
 営業など全くやる気なし。働く気もないし、趣味は仕事をさぼってサブスク配信で映画を見たり、カフェでおいしいものを食べながら寛ぐこと。世の中を舐め切っている白洲美加を、イモトアヤコさんが好演していた。

 彼女は同僚の男性・足立にふられたあと、同じく同僚の宅間と結婚し、1人目出産後専業主婦に。
 その後退屈になったと同じ営業部に(よく雇ってもらえたと思うのだが)バイトで勤務していたが、2人目妊娠出産後に離婚。2人の子どもの親権は彼女が持ち、生計を立てるために新宿営業部いきつけのスナックでバイトしていたが、子供の世話は実母に押し付け、離婚しても元夫をこき使うという、正直とんでもない「主婦」だった。結局モトサヤで宅間と再婚するらしいところでドラマが終わった。

 いったい白洲美加にどんな魅力があってそうなるのだ、と思うし、もはや主婦がどう、ということ以前の白洲美加の人格の問題ではある。コメディドラマなのでさすがにここまでの女性はそうそういないし、デフォルメされた人物像ながら、こうして社会に対し厚顔無恥と思われている「主婦像」もあるというひとつの例ではあると思う。

『過保護のカホコ』(2017年/日本テレビ 脚本:遊川和彦)カホコの母・泉


 カホコの母・泉は、カホコをこれ以上なく過保護に育てた張本人だ。彼女は専業主婦なのだが、保険会社に勤める夫と口喧嘩になると、

「あのひと(夫)は私が専業主婦だからって馬鹿にしてるのよ。社会に出て働いていないくせに、って思ってるのよ」

 とよく言っていた。娘を溺愛し、娘のために生き、毎晩、親子でカホコのビデオを観るのを生きがいにして、家事に手を抜かず頑張っているお母さんだ。

 そんな母親が、就活中のカホコをいい会社に就職させようとやっきになるのだが、そうは問屋が卸さない。友達もできないほど過保護に育てられたお姫様が、すんなり就職できるはずがない。どの会社も軒並み落ちまくる。

 泉は家では女王然とふるまっているが、自分の定めたエリアの外に行くと、突然借りてきた猫のようにおとなしくなり、小声でしか話ができなくなる。特に義実家などではそれが顕著になる。

 地図でハート形に囲われたそのエリアは、泉の王国であり、その外は外地で敵地だ。専業シュフが自分を中心にした半径何キロの中でしか生きていないことをコミカルに、だが象徴的に表現していた。

 恋人(のちに夫になる)麦野くんと出会い、初めてアルバイト(の手伝い)をすることで「人を幸せにする仕事をしたい」「自分にできる仕事とは」と、本気で思うようになるカホコ。

 母親の泉は「いざとなったら花嫁修業をして専業主婦になればいい」という、古い価値観でカホコを囲い込もうとし、カホコの自立を阻む。

 カホコの祖母は、父方も母方も専業主婦だが、父方の祖母は「専業主婦は絶対やめなさい、大変なだけで幸せじゃない」と言い、母方の祖母は病気で余命宣告されている。娘三人を育て姑に仕え、家族で集まるのを生きがいにしていた祖母は、カホコに「家と家族」を託して亡くなる。そしてカホコは、自分の行く道を決めていくのだが、それは祖母世代・母世代の「家と家族を守る」役割をビジネスにした形をとる。

 遊川さんの脚本にはいつも一風変わった「働く女性」が描かれるのだが、『過保護のカホコ』では、専業主婦の変化球が描かれていると、私は思う。

『義母と娘のブルース』(2018年/TBS 脚本:森下佳子)みゆきの母・亜希子

 こちらは血のつながらない母(亜希子)と娘(みゆき)の物語だ。仕事のできる亜希子は、有能ぶりを買われて先妻をなくした良一の後妻に入る。良一の当初の目論見は、亜希子の仕事ぶりが、余命いくばくもない自分亡き後みゆきの母親になってくれる女性として相応しいというものだったが、次第にふたりは惹かれあう。が、ほどなくして良一は死去。

 亜希子は仕事をやめ、「みゆきの母」に集中するため専業主婦を選択する。
 数年後、みゆきが高校生になったころから仕事を再開するのだが、経営不振のパン屋の経営を立て直すべく、パン屋でアルバイトをはじめたところから亜希子のキャリアリブートの快進撃が始まる。

 亜希子は当初専業主婦としては失敗ばかりしていたが、それでも懸命にみゆきの母としての仕事を全うしようと努める。しかし仕事をしていないその間、ただ黙って貯金を切り崩していたわけではなく、デイトレードで生計を立てていた。仕事を再開しようと思ったのも、大学進学にのぞむ娘に働く社会人としての背中を見せようとしてのことだった。

 みゆきの大学進学とともに、亜希子は元の上司のつてで再就職をしたり、ベーカリーを再建したりとそれまでのキャリアを活かしコンサル業をはじめるが、道は平たんではなく、次第に「母としての経験を仕事として社会に活還元できないか、子供を持つ女性のためになにかできないか」と考え始める。

 泉は夫の収入をやりくりして家庭を切り盛りしながらも、常に収入のない引け目を感じながら自信を持てずに生きているが、亜希子は良一の遺産だけに頼らず、自分にできる資産管理をしながら生活している。
 彼女は、自分はいざとなったらいつでも仕事ができる、という自信にあふれている。

 カホコの母・泉と、みゆきの母・亜希子は、とある数年を切り取ればともに「ひとり娘を育てる専業主婦」だが、その内情は異なる。

 しかし外から見れば、ふたりはおなじ「専業主婦」だ。

『リコカツ』(2021/TBS 脚本:泉澤陽子) 紘一の母・薫


 交際ゼロ日で結婚した、昔ながらの主婦像を押し付けようとする自衛官の夫(紘一)と、先端を行くアパレル編集者(のち文芸部で作家担当)の妻(咲)との葛藤とすれ違いが描かれる話だ。

 彼らは離婚すると決めてから愛をはぐくんでいくのだが、実は彼らそれぞれの両親にも、彼らの離婚話と並行して離婚の危機が訪れる。咲の母・美土里は美魔女モデルでインフルエンサーという華やかな人物であるいっぽう、紘一の母・薫は古風で常に陰で夫を支える典型的な専業主婦。

 紘一の両親はここまでのステレオタイプが令和の世にあるのだろうかというほどの古式ゆかしい夫婦で、夫は「フロ・メシ・ネル」しか言わず、すべて妻任せで家庭を振り返らない。
 そんな夫に、妻の薫は夫の退職を機に離婚を言い渡し、家を出る。
 そして仕事を見つけて働き始めるのだ。
 理由も言わず、一方的に家を出た(ほとんど家を捨てたと言っていい)薫を、息子の紘一は探すが、夫はしばらく探さない。ようやく探し当てた紘一に、薫は言う。

「夫の退職までで自分の務めは果たしたから、あとは自分の人生をもう一度、自分のために生きたくなっただけ。生涯に一度でもいいから働いてお金をもらって、自分の力で生きてみたかっただけ」と。

 ちなみに、結果的に主人公の咲は仕事も家庭も諦めないで、両方得た。求婚者が何人もいて選び放題で迷っていたが、誰を選んでも彼女の希望通りになったはず。それが現代の妻の理想なのだろうと思う。


専業主婦像の変化

 かつて『渡る世間は鬼ばかり』というドラマがあった。
 1990年から2011年まで放送された人気シリーズで、通称「渡鬼わたおに」と呼ばれた。脚本は「おしん」で有名な故・橋田壽賀子さん。脱サラした小料理屋・岡倉家の5人の娘の家庭をリアルタイムに描いて人気となり、全500話にも及ぶ。500話の平均視聴率は20.6%だったそうだ。

 私の上の世代には絶大な人気を誇っていたと思うが、正直、私は熱心な視聴者ではなかった。
 今改めて「共働き世帯の推移」の図を見ると、みごとに逆転していく端境期に放映されていたことがわかる。

 実際、橋田寿賀子さん自身、最初につとめた映画業界の男尊女卑体質に見切りをつけ、フリーに転向してテレビで華々しく活躍した。
 そんな経緯もあり、岡倉家の5人の娘たちは、それこそ専業主婦あり、共稼ぎあり、結婚と仕事に悩む娘ありと人生模様が百花繚乱の趣だ。

 世間では橋田さんと泉ピン子さんの濃い人間関係に絡んでいろいろと騒がしいことがあるようだが、ドラマ自体は、親世代・子世代・孫世代のジェネレーションギャップや時事問題が織り込まれ、近所や自分の親戚の家をみているような錯覚に陥いるドラマだ。女性の考え方、生き方を時代に合わせてみることができるある種の「史料」だと思う。

 さて、2011年ごろまで断続的に放送された『渡鬼』の端境期の女性の生き様を経て徐々に世の中の意識が変わっていく中、2016年『逃げ恥』から2021年『リコカツ』までの数年の間に、ドラマの中の「主婦」は急激に変化を遂げている。

 2017年の『奥様は取り扱い注意』では、主人公菜美を取り巻く専業主婦たちはとても孤独なものとして描かれていた。彼女たちが仕事をしない・できない理由は様々で、華やかな生活をしていても、鬱屈していたり、卑屈になったりして自信を失った女性たちが多く登場する。

 2019年以後は、同性カップルを扱ったドラマが飛躍的に増えた。
『きのう何食べた?』(2019)は男性カップルの話で、二人とも仕事をしている。そのうえで、ひとりが食事を担当している。シュフと定義するなら彼が主夫だ。そのことに、二人の間で不満は生じていない。ひとりが作り、もうひとりが美味しく食べる。時には一緒に台所に立つ。ふたりは「同等」な存在で、法的な面での措置は受けられないが、ある種、理想的な結婚生活だ。
 同年のドラマには『おっさんずラブ』もある。こちらも家事の得意なほうが家事を担当している。どちらのドラマも一方が家事を担当するのが興味深い。

『極主夫道』(2020)はかつて極道だった男が一般の女性と結婚し、主夫道を極めていくという話。漫画では子供はいなかったが、ドラマでは妻に連れ子がいる設定になっていた。主人公の元極道・龍は、ライフハックにあふれた家事をこなし、主夫に誇りを持ちつつ仕事を楽しむ。シュフの仕事を擁護し、肩身の狭いシュフたちの「憧れ」として描かれていた。

 「専業シュフ」は、その実態も理想も多様化して、性別すら超え、もはやモデルが存在しない。夫や子供、舅姑のために自分を犠牲にして尽くす女の姿はもう、どこにも見当たらない。かつてそうであった女性も、第二の人生を仕事に求めるようになっている。

 とはいえ、マイノリティーになった専業の肩身の狭さはさらに加速していく。

 いわゆる「仕事ができる世の中なのに、なぜ仕事をしないの?」「家にいるのは暇人」「世の中を知らない」「遊び人」という、レッテルがはられるのである。

昭和の主婦像

 生活史・食文化研究家の阿古真理さんによると、「主婦」という存在が生まれたのは昭和になってからで、もともとは大きな家で使用人を使うような女性を「主婦」と呼んだらしい。

 それより以前は「家に嫁ぐ女」、つまり「嫁」という言葉しかなかった。
 そのうちに、地方の次三男が都会に出てくるようになり、その妻となった「嫁ぐ家」のない妻を「主婦」と言ったのだという。

 昔は兄弟姉妹も多く、親も子の全部に対し経済的にも精神的にも均等に熱心にはなれなかったし、男兄弟のいる娘は、早く結婚して家を出たい、と思う人も多かった。

 都会の団地などで核家族を形成し、舅姑のいない世界で「主婦」として「永久就職」するのは、願ってもない就職先だったし、年頃になると親や近所の世話人が世話をした人と結婚するのは当たり前のことだった。

 恋愛をして結婚しても、依然、家の縛りは同じ。前の世代の縛りなく「主婦」として自分の台所を持ち、家庭を切り盛りするのは女性のひとつのあこがれや夢だったのだ。

 ある意味その頃の「主婦」は、「自立」の象徴だったと言っていい。

 当時の専業主婦はワンオペは当たり前だと思っていたと思う。『リコカツ』の薫のように。それでも「誰が稼いでると思ってるんだ」「一文も稼いでいないくせに」という罵声を浴びることもあったはずだ。

 その後、意識や生活形態の変化によって、主婦たちは家計や自己実現、社会との接点を得るために外で働きはじめる。
 家にいる主婦は、自立どころか次第に自信をもてなくなっていく。『過保護のカホコ』の泉のように。

専業シュフのはたらき方

 これまで見てきたように「専業シュフ」と言っても、その中には、多様な人々が含まれる。
 完全に家の仕事のみをする人、育児や看護・介護などケアをする存在がいる人、怪我や病気で心身が思うようにならない人、副業や趣味の活動・ボランティアをする人、扶養範囲内でパートやアルバイトで働く人。

 専業シュフはよくバッシングされる。
 どうしても「テレビの前でおせんべい齧りながらコタツに入ってゴロゴロしている」ようなイメージが湧くのだろう。あるいは「昼間からおしゃれなカフェでランチに興じているようなイメージ、楽して遊んでいるイメージ」が。例の、白洲美加のイメージだ。

 否定はできない。
 これこそが、世のシュフにとって「痛い」ところなのだと思う。

 時には息抜きにランチに行くこともあるし、趣味のために時間やお金を使うことはある。
 それ以前に、そうしたくても身体がままならない人もいるし、ケアする人がいて身動きが取れない人もいる。
 そういった人が身体が元気な時や誰かが手伝ってくれた時に息抜きをしたところで、本来は誰かが責める筋合いの事ではない。
 働いている人なら誰だってするようなことで、専業主婦だけがしてはいけない、ということにはならないはずだ。

 すべては程度問題である。

 しかし、どうもこの辺に世のシュフたちが委縮する原因があるような気がする。「日頃頑張ってるんだから当然の権利」と開き直れない。

 稼いでいないのに申し訳ない、と思ってしまう。

 専業シュフの仕事は、自分が動かなければ回転しない輪の中にいるようなものだ。ただ、ネズミの回し車と違って、その輪はエネルギーを生み出している。

 「専業」とは「状態」にすぎない。
 「状態」は、環境や体調、年齢が変われば変わっていく。

 どう「専業シュフ」を運営するかは、自分次第。
 みくりにも、泉にも、亜希子にも薫にもなれる。さすがに腹が立つが、白洲美加にも。

 専業シュフは絶滅しかけながら多様化している。
 いずれは、絶滅するのであろう、と思われる。
 数字の上ではまったくのゼロにはならないだろうが、人々の意識の変容によって「専業」という名称の意味が変わっていくのではないか、と思う。

 働いていても仕事を辞めざるを得ない状況、というのは男女ともにありうる。身体や心に不調が訪れるかもしれないし、定年退職ということにも直面する。会社や仕事がなくなってしまう、ということもありえなくはない。

 誰にでも思いがけず専業になってしまうことは、ありうるのだ。

 超早期に退職してしまったと仮定して、家の仕事に生きるもよし。
 趣味を極めるもよし。
 そのマン・パワーは、外で働く人と同様に、社会に貢献している。
 その中で、シュフ自身の働き方も、変わっていくのは必定だ。

 時間のあるほうが、できることを担当する。
 その配分が、多いか少ないかだけになっていく。

 家事一切がものすごく好きで得意なひとには、もちろん、それが生きがいとなり天職となりうるだろうが、これはあなたの仕事で私の仕事ではない、という厳密な区切りは生活者として全く現実的ではない。

 男女ともに「give」や「take」ではなく「do」だけになっていくのが理想なのだと思う。

 逃げ恥の津崎が言った「シュフも家庭を支える立派な職業。そう考えれば、立派な“共同経営責任者”」という意識のもと、夫婦ともに外で働くべきときは外で働いたり、家での仕事の負荷が高い育児期は家にいたり、フレキシブルに流動していくのだろう。


 それは、老人になっても働くべきであり、金銭を生み出す生産性を失った人間は不必要といわんばかりの今の社会の風潮に、一石を投じていく生き方でもあると思う。それが、専業シュフの可能性でもあると思う。

 パートナーと助け合い、家庭の中で仕事をすることに、卑下せず、驕慢にもならず、ひとりの人間として自らの心に正直に生きる暮らしが実現したら、「どんな仕事をしていますか?」と聞かれたときに「今は専業シュフとして働いています」と堂々と言える日も来るのではないか、と思うのである。

 ***

 ここまでお付き合いしてくださった方。

 1万2千字あまりの超長文記事を読んでくださって感謝しかありません。
 ありがとうございます。
 心からお礼を申し上げます。


《参考資料》
厚生労働省HP
内閣府男女共同参画局
 阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』
 阿古真理『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』

#天職だと感じた瞬間










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