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雪降る街のクリスマス(駐妻記 番外編1)

 2011年は震災の年、と心に刻まれている方が多いと思うが、あの年はタイでも未曽有の大洪水に見舞われた年だった。

 7月ごろから台風による大雨が続いていた。地方では徐々に洪水の被害が出始めていたが、8月にはインラック政権が誕生し、バンコクはそのニュースでもちきりだった。

  当時、我が家は駐在でバンコクに住んでいた。愛犬を亡くしたばかりで、どうかすると沈みがちな心を持て余しながら暮らしていた。洪水の報道に接した記憶がない。

 過去30年で最高の降水量となった9月の大雨が追い打ちをかけ、洪水はついにアユタヤにまで被害を拡大した。

 10月に入ると、日系企業が多く工場を構える工業地帯に浸水が及び始め、いよいよバンコクに迫ってくるらしい、日本人の居住地域にも影響が及びそうだという噂が駆け巡り始めた。

 タイの洪水と言うのは、日本の洪水とは違う。日本の河川と違い勾配がゆるいので、勢いはないが水がどこにも逃げられずに、長い間同じ場所にとどまる。下手をしたら何か月も水が引かないという。

 この時の洪水は、日系の工場もかなりの数浸水して操業できなくなった。政府はドンムアン空港に災害対策本部を置いたが、そこもほどなく浸水し、移転を余儀なくされた。バンコクに住む私たちは状況がよくわからず、ただ右往左往してトイレットペーパーや水を買い求めた。友達とカセットコンロを買っておこうという話になったが、売り切れで探し歩いたのを覚えている。

 10月も半ばを過ぎると、あちこちの企業で邦人家族を避難させる動きが出てきた。身近な知人たちが、帰国しないまでもホアヒンやパタヤなど郊外の安全な場所に逃れていった。どうなるかわからない状況の中、水道水に下水が混入したとか、電力供給が怪しくなりそうだとか、噂が飛び交った。噂に振り回され、まさに狂騒だった。

 幼稚園がしばらく休みになるとの連絡を受け、いよいよ我が家も避難することになり、帰国を決めた。バンコク都に水を流せば少しは水が引いた地域もあるのに、政府はそれを拒み、周辺の人々は家が浸水したまま我慢を余儀なくされていた。王都のお金持ちは私たち外国人と同じように、海外や洪水の被害のない周辺部に逃れたらしい。政権交代の直後で混乱していたこともあったのだろうが、ただ、日々戦々恐々としていた気がする。

 正確な情報を外国人たる私たちが手に入れるのは至難の業だった。日本のテレビの情報と、外国のテレビの情報、タイのテレビ局の情報はどれも微妙に食い違っていた。日本のニュースは見ていたが、洪水の被災地の子供が水で遊んでいたり、テレビカメラに笑いかけるタイの人々に「どうして逃げないのかな」「なんとなく呑気だ」という意見が聞かれたりもした。

 水の中にはワニがいるので気をつけなければ、というコメントが繰り返し流れて「ワニだって!」と、動物奇想天外的な報道も見受けられた。実際、ワニは本当だったし、タイの人々の逞しさも本当だが、実際どこに水が出るかわからない状況では逃れようがないし、逃れる先もない。タイの人々には諦観や達観も多分にあっただろうと思われる。

 正直、日本についたときはホッとした。ひたひたと水が押し寄せる不安感は、知らず知らずのうちに心を蝕んでいたようだ。一方で、震災後のひりひりした日本の空気もまた感じることになった。タイに行ってからまだ一度も一時帰国していなかったので、特に敏感に感じた。以前と何かが違う。何かわからないが、確実に何かが。私と息子は粛々と移動した。

 東北にある私の実家に身を寄せた。私の両親は、大変だとは言いつつもやはり孫が長く滞在することが嬉しいようで、それはそれで、よい機会を与えてもらったのだと前向きに考えることにした。

 いつタイに戻れるかはわからない。息子はまだ園児で、大人だけの家にずっといても退屈だろう、という話になり、近くの幼稚園で受け入れてくれるところを探すことにした。

 最初に問い合わせた幼稚園が、快く息子の臨時入園を受け入れてくれた。キリスト教系の幼稚園だった。

 タイの状況をお話すると「そうですか。ニュースで見ています。大変ですね。震災で避難されてきた方もいらっしゃいますし、タイの洪水も同じ災害ですからね」とおっしゃって、避難者対応の手続きを取ってくださった。

 いや。いやいやいや。震災の避難と同じとは、とても言えない。帰る家を失くしたわけでも、何年も帰れないかもしれないというようなものではない。実際に直接、洪水の被害を受けたわけでもないのだ。本当に震災で避難された方からすれば「こんなことで」というレベルだ。

 同じ扱いにしてくださって、非常に非常に心苦しかったが、心から有難く、助かった。まさに実践で博愛の精神を教えていただいた気がした。

 そうして、息子は日本の幼稚園に通うことになった。

 幸い、息子は友達大好きなタイプなので、子供たちが沢山いる幼稚園が嬉しくてたまらない。楽しく通わせてもらったが、タイとの気温差が激しかったためによく熱を出して体調を崩し、実際はあまりきちんと通えなかった。しかし幼稚園に行ったときは、友達ができたよと嬉しそうで、やはり実家にずっと閉じ込めておくより良かった、と思った。

 12月。東北の街に、雪が降る。

 南国育ちの息子は初めて経験する雪に喜んだが、庭に積もった雪に喜び勇んで上着も羽織らず外に出て「サムイ!」と悲鳴を上げ、ふわふわの綿と同じだと思っていた雪に初めて触ったときは「イタイ!」と声を上げた。冷たさを痛みと感じたらしい。それでも小さな手で生まれて初めての雪だるまをこしらえた。小さな雪だるまは、じいじの作った大きな雪だるまの隣にちんまりと寄り添った。

 朝、雪の中を幼稚園まで息子と歩きながら、不思議な気持ちになった。前の月まで半袖で暮らしていたのに、今は曇天の下、白い息を吐きながら、ちりちりとマフラーに落ちて溶ける雪の中を歩いている。

 幼稚園ではクリスマス会の準備が始まった。アドベントカレンダーが貼られ、手の込んだ細工のツリーやサンタが窓枠に並ぶ。それらの飾り物は、教会の木枠の窓から見える雪に映えて実にフォトジェニックで美しかった。子供たちもクリスマス用に切り絵をしたり折り紙をしたり。南国の幼稚園と比べ、クリスマス待ちわび感が半端ない。ある種の「本場感」があった。

 さらに息子はクリスマス会の劇にも出演させてもらえることになった。先生に、ご迷惑でしょうから無理せずとも、見せていただくだけでいいので、と言ったのだが、一緒にいるのだから当たり前ですよとおっしゃられた。

 キリスト教系の幼稚園だから、当然、クリスマスは「降誕劇」をする。私は実を言うと、この劇に憧れていた。正確に言うと「クリスマスにこの劇を見ること」に憧れていた。少し昔の外国の童話や小説を読むと、この場面が本当によく出て来る。ザ・クリスマスという気がする。

 私自身はキリスト教徒ではないし、仏教系幼稚園だったため、経験することなく大人になってしまった。子供の学校選びに関しては宗教系ではない学校を選んできたが、今回はアガペーの実践として許されたまたとない機会である。

 息子はイエス様を祝福する、星の役だ。いわゆるその他大勢なのだが、星のついた棒を持ち、くるくる回しながら舞台を移動する。嬉しそうに星を回し、他の子とちょっとずつズレながらも、なんとか役を務めた。子供たちの劇は想像通り、心温まる可愛らしいものだった。

 劇が終わると、花道をサンタクロースが大きな荷物を抱えてやってきた。園児たちは大喜びだ。大喜びする園児たちが可愛らしくて保護者達も大喜びだ。園児たちはプレゼントをもらい、みんな嬉しそうだった。

 ほどなくバンコクの安全宣言のようなものが出て、私たちもタイに戻ることになった。息子は都合のいい時だけ参加した形になってしまったが、本当にいい経験をさせてもらったと思う。今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

 南国で成長すると、季節を味わうことがない。その国ならではの行事もあるが、どうしても感覚が鈍る。多少なりとも経験させたくて、タイの日系幼稚園でも季節行事の多いところを選んだのだが、どうしたってクリスマスもお正月も節分もひなまつりも全部、半袖短パン、真夏の行事だ。

 東北の田舎で育った私は、季節ごとの匂いや、雪が降る日の静けさがわかる。息子はいまも、そういうものが全然わからない、と言う。季節が変わったり、景色が変化することは、なんとなく観念的にしか捉えられないという。日本人として生まれたのに、残念なことだ。

 それでも幼い日、雪の降る街で暮らした二か月余りの経験は、彼の財産になっていると思う。冬の匂いや雪の感触がわずかばかり心に残っているらしい。わけがわからないままに参加して、星のついた棒をくるくる回したクリスマス会の思い出とともに。

                            《End》

この作品は蜂賀三月さん主催のアドベントカレンダー、参加作品です。
現在「創作大賞」に応募している「駐妻記ちゅうつまき」の番外編として書きました。良かったら、そちらも覗いてみてくださいね。

創作の輪を広げる #アドベントカレンダー2021


|蜂賀 三月|note


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明日は宮内ぱむさんの作品が公開されます。
楽しみですね。



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