世の中の価値観に翻弄される個性【岡崎京子】
詢川華子さんのこちらのつぶやき。
こちらを読んで、思い出したことがあります。
先日、実家に帰ったときに見つけた、古い月刊誌『CUTiE』1990年10月増刊号。
岡崎京子デラックス、『ROCK』です。
岡崎京子さんは1980年代後半から1990年代前半に活躍した漫画家さん。
1996年、ひき逃げ事故にあって漫画家として断筆を余儀なくされています。あのときのショックは言葉にできませんでした。なんで、どうして、岡崎さんが…
岡崎京子さんを初めて知ったのは大学生の時。
『PINK』の衝撃は忘れられません。
バスルームでワニを飼っているデリヘル嬢の女の子の話でした。
大学で初めて友達になった女の子が、これ、面白いよ!と貸してくれたのが最初です。以後、岡崎作品は見かけるたびに読むようになりました。
映画化された『ヘルタースケルター』が有名ですが、私は最初の出会いだった『PINK』と、この『ROCK』、『チワワちゃん』が特に印象に残っています。『リバーズ・エッジ』や『くちびるから散弾銃』などほかにもいろいろあるんですが、中でも『ROCK』は、主人公のロックが純粋でキュートなところが好きでした。
『ROCK』は、みなしごの17歳の女の子、ロックのお話。
モデルのエージェント、スピカに拾われて同居していましたが、スピカの弟・遊び人のアトムと勢いで結婚。しかし夜遊び大好きな二人の生活はほどなく破綻。ロックはスピカのもとでモデルとして成功していきます。一方でアトムはスピカの姦計による借金によって元カノに脅されながら元カノとの再婚にまっしぐら…
バブル真っただ中の1980年代後半~1990年前半の軽薄短小な時代の空気感とポップカルチャーが絡み合う、当時としてはとても「現代的」で、でも今読みなおしても新鮮な、岡崎京子作品。
投げやりでいい加減なキャラクターたちが世の中を舐めたような行動をとっているように見えますが、その実、その裏には壮絶な絶望感と虚無と寂しさを抱え、「拝金主義」の巨大な時代の影に踊らされ搾取される若者たちを描いています。
さて、『ROCK』で描かれているのが「モデル」の世界(モデルを「デルモ」と呼んでいるのがまさに時代)。
ロックの前にスピカによって売り出されていたメルモというモデルがいました。太っていたコンプレックスをスピカの指導で覆され、モデルとして成功したものの「もう、モデルやめたい」という場面。
ドル箱モデルを失うことになったスピカは、出戻ったロックに目を付けます。
ちなみにスピカはレズビアンなのですが、別居中のゲイの男性との間にウランという一人娘がいます。
スピカがロックに目をつける前、目の前で好きなだけ食べるロックをみつめ、娘のウランが「ロック。あんた太ったんじゃない?」と言うシーンも印象的です。
「あんたこそ、子供のくせによく小鳥のエサ程度でガマンできるわね。そんなんじゃおっきくなれないから」というロックに、「あたし別におっきくなりたくないもん」というウラン。
崩壊してバランスを欠いた家庭環境と母親の価値観に、ウランがすでに蝕まれていることがうかがえる場面です。
スピカはロックに10キロ瘦せることを課し、ロックは過酷なダイエットで実際に10キロ減量に成功します。
与えられるのはミネラルウォーターとりんごとヨーグルトと塩気のない野菜のみ。あとはすべて錠剤です。
そしてロックは、モデルとして華々しく活躍しはじめるのです。
強欲なスピカの手腕で、モデル、テレビ、小説、あらゆるメディアミックスの中に取り込まれていくロック。そしてひとりぼっちのある晩、
そう考えてポロポロ泣く場面があります。
詢川華子さんのつぶやきの、ブリジット・マルコムさんの記事を読んで、思い出したのはこの場面でした。『ROCK』のころから、何年経っても何も変わっていない、ということに愕然としました。
果たしていつから「痩せていることは美しい」という価値観がこの世を支配しているのでしょうか。
食べることがままならない時代は、太っていることは富の象徴でした。
そういった時代には、痩せていることを美しさと結びつける価値観はなかったものと思われます。
現代でも、世界中を見渡せば、そういった価値観を持つ文化は多くの地域に見られますが、欧米を中心として、特に日本の「痩せていること」に対する崇拝は度を越している気がします。
日本は江戸時代から、柳腰の痩せた女性がもて囃されていますし、痩せ願望の素地はあったのかもしれません。
痩せているのが美しい、という価値観は、ある程度衣食住が満たされて以後の社会で、誰かが(特にメディアが)作ったものにすぎません。
岡崎京子さんの作品には、この「心身を蝕むほどに世の中の価値基準に合わせようとするキャラクター」が多く登場します。『ヘルタースケルター』に出てくる「りりこ」はその典型で、彼女は壮絶な全身整形を繰り返し、世の中が「美しい」と決めた価値観にあうように自分を作り変えていきます。身体も顔も、元の彼女はどこにも残っていないくらいです。
それは強いコンプレックスの裏返しであり、「弱者はうっかりしていると抜け目のない人物に出し抜かれ、利用され、暴力を振るわれる」ということに対する強烈な恐れと不安があります。
多かれ少なかれ、現代の子供たちはそういった価値観によって翻弄されているように思えます。それに抗うためには、外見を変えるしかない、と思い詰めてしまう若者たち。
そこにあるのは個性や自由、多様性などというものではなく、「空気」「雰囲気」「流行」など、特に見た目の価値観=ルッキズムの圧です。
見た目を変えることは以前はそう容易ではありませんでしたが、昨今は美容整形が身近になったことで問題がより深刻化しているかもしれません。
ルッキズムが学校カーストに直結し、交友関係に影響する、それがその後の人格形成、人生に影響していくのを想像するのは難しいことではありません。
身体、というのは、これ以上ない個性です。
生まれ持った身体を否定し、自分が子供を産むということを拒絶してまでも見た目を追及するという「身体の軽視」は、そのまま生理の軽視につながっているようにも思えますし、性的な搾取のひとつでもあるのかなと思います。
2000年代に入り登場したのが身体性に自由の空気を運んだ渡辺直美さんでしたが、昨年のオリンピックのあれこれでは、いまだにはびこる価値観の押し付けがあるのだなと呆れたことは記憶に新しいことです。
私たちは、まだ「自由で成熟した心身の価値」は手に入れていないように思えます。
とても難しい問題ですが、ルッキズムと生理が密接に結びついているという気づきをいただいた、詢川さんのつぶやきでした。
さて、『ROCK』の物語では、ロックはどんな結論を出したか…
ロックとアトムにとってはハッピーエンドだった、とだけ、言っておきます。後味に「さほど」ざらついたもののない結末は、岡崎作品には珍しいかもしれません。
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