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自己愛被害 レジリエンスアプローチ Ⅴ
*エネルギー交流における最低限の許可とは?
*自己愛的な加害者たちはフィールドの「中心」でいたい
*ターゲットや元取り巻きたちの正当な主張、正当防衛は「攻撃」ではなく、自然法則に則った自然現象であり、実は起こすものではなく「起こる」
上記がエネルギー領域で起こるレジリエンスプロセスであることを明確に自覚することで憑依が落ち、レジリエンスを早める。
気を許す、という言い回しがある。
日常的で、誰もが感覚的に理解できるフレーズだ。
エネルギー次元において真に交流が存在するには
双方の「許可」があってこそ可能だが、それが端的に表現された言い回しである。
身体感覚でも、だれもが理解できる。
むしろ、身体感覚のほうがより正確にわかるかもしれない。
気を許さないとは、気が張っている状態であるとも言い換えられる。
気を張っている、気のバリアを巡らせている状態は五感にわかりやすくダイレクトにあらわれる。
その状態では美味しいはずのごはんがそう感じられなかったり、お酒に強くなくてもなかなか酔わない。
飲食時に一緒にいるひとによって、味が変わったり、お酒なら酔いの回り方もまったく違うのはだれもが経験があるとおもう。
仕事などでは、常に気を張っているのが当たり前だといわれるかもしれないが、それでも相手がひととして信用できれば、「余計な」気は張らないものである。
緊張感も嫌なものではなく、無駄な気疲れはない。
たとえ表面的な顕在意識では、その一緒に過ごした時間が楽しかったと感じていても、帰宅するとなぜかどっと疲れたりすることがある。
気が抜けた状態になる。無意識にからだが緊張していたのだ。
そのような相手とは、後々トラブルが生じたり、思いがけない一面を隠し持っていたことが分かったりするのである。
本来、何かしら「通じ合える」ものがなければ、自然なエネルギー交流は起こりえないのである。
自然に通じ合えないのなら、本来縁が無い相手なのだ。
この「通じあえる」状態であるが、自己愛的な加害者たちと普通のひととでは解釈や認識が異なる。
彼らの内面世界には真の意味での他者は存在していない。
そんな彼らにとっては、他者に自分の感情、都合、損得を押し通すことができた状態が「通じ合えた」なのである。。
つまり、思い通りに相手を操作コントロールできた、丸め込めた状態である。
エネルギー交流における許可、受け入れ基準は自分でも真には把握できず、当然コントロールできないものである。
心が動く、惹きつけられるというのは理屈ではないからだ。
自然の引力である。
縁とはひとの領域ではないからだ。
オカルト的だが、カルマ的な悪縁もあり、一時的には惹きつけられても学びが終われば切れていく、期間限定的な縁もある。
ただ、どんな縁であっても、相手が誰であっても、いついかなるときも
ベースにひととしての信用・信頼があることが自然法則として絶対条件である。
これが最低限の許可である。
最初から信用・信頼がない相手、関係の途中から決定的に信用・信頼を失った相手とはエネルギー次元において真の意味での「交流」は起こらない。
信用・信頼がベースにあったうえでの各自の選択なのだ。
自己愛的な加害者たちは、この絶対的な暗黙の了解が感覚的に認識できないし、たとえわかりやすく説明されても絶対に認めない。
もうこの時点で、普通のひとたちとは感性があまりにもかけ離れすぎているのである。
けんかするほど仲がいいとか、ライバルが後に親友になるとか、
これらはすべて最初から双方がひととしては認めている、つまり人間として信用・信頼が存在しているからこそ、可能なことなのである。
このことはあまりにも当たり前すぎて、だれもわざわざ改めて言わないことだが、この当たり前すぎることが共有できていないのが自己愛的な性質の持ち主たちなのである。
かれらはベースの受け入れ基準がひととしての信用・信頼をすっ飛ばして、ダイレクトに上下優劣なのである。
対等な存在としての交流ではなく、基本的に「下」「劣」は「上」「優」に従い、無条件に受け入れるものというスタンスなのである
だからあれほどまでに優位であることに執着するのだ。
自分が優位者でありさえすれば、すべて正しいのだという認識なのである。
自分より下位にカテゴライズした相手の主張は、それが古今東西の自然法則に則ったものであろうと、どれほど公共性・普遍性のある正論でも、耳を傾ける価値などないのだ。
優位者でありさえすれば、どんな理不尽なことも許容され
相手に自分の感情の納得を与える義務があると誤認識している。
もちろん優越欲求そのものは、何も悪くない。
自己愛的な人たちの、それを満たす手段が不当でおかしいのが問題なだけである。
別記事に書いたように「許可」がなければ、エネルギーの回路はひらかず
自然な交流は起こらない。
許可しない相手に干渉するのは、情報やエネルギーを不当に盗む行為である。
かれらは自分だけの感情、都合、メリットデメリットで無理やり縁を結ぼうとするからトラブルが多発するが
だが、どれだけトラブルがおころうとも、双方真には何も残らない
自己愛的な加害者たちは何度同じようなトラブルを繰り返そうが、どれほど自分が損をしようと、決して変わらない。
自己愛被害の経験者たちが一様に、世の中には絶対に関わってはいけない人たちがいる、そのことが分かったことだけが学びだった。
それ以外は本当に無だった、ほんとうに時間とエネルギーを無駄にしただけだったというのは
エネルギー次元においては、「交流」は起こっていないからである。
精神科医たちが口をそろえて「逃げるしかない」というのは、
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