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負の連鎖を断ち切るか否か、その分水嶺 Ⅳ

  • 歪んだ承認欲求は異常な優越欲求として、表出する

  • 行き過ぎた優越欲求は決して「誠実さ」とは共在できない

  • 恩と愛の混同

  • 補足 同類相補とは

以下はわたしが7/26日に公開した記事「全ては、魅了されてこそ」の全文抜粋である。

「ひとは皆、尊敬し、
憧憬の気持ちが自然に湧き上がってくるからこそ、
その相手の言葉に耳を傾け、
その言動や表現を「自発的」に吸収する
のだ。

吸収することが楽しい。
楽しいから糧になる。
まさに「学ぶは、真似る」なのだ。

このように、真似ることは本来は敬意と憧憬から自然に起こるものでは
ないだろうか?

問題は何を言うかではないのだ

その内容の真偽やレベルの高低の問題ではない。

ごく自然に湧き上がる、憧れや尊敬の気持ち
人としての好意
それがない相手からは真に学ぶことなどなにもない。


誰が何と言おうが、その直観は揺るがない。
自然と湧き上がる、魂の意志だからだ。

例えば善意からある本を勧められても
その文体、クリエイターが好きでなければ
頑張って読了しても、真には何も得られない。

また、その書かれている内容と、そのクリエイターのエネルギーが不一致でも力を持たない。

憧れや尊敬の気持ち、人としての好意がない相手からの言葉は
ひとは、もとめていない。
必要としていないのだ。

そのひとの言葉やアドバイスを受け入れるということは
そのひとの(まつわる情報の)一部をじぶんのものとすること
なのだから。

その独自性、エネルギー、本質に魅了されていなければ、
絶対に「自然に」受け入れることはないし
その必要性もまったくない。

自分が「主体性をもって」受け入れ、取り入れる。
それにより、自然に感化されてこそ、真にじぶんのものに出来るのだから。

自己愛的な負の連鎖を受け継ぐひとたちは、このことがどうしても感覚的に腑に落ちない。
もちろん理性や頭でも「下」と判断した相手には絶対に認められない。

目上の指導は無条件で受け入れるべきだと、深いところで信じ込んでいる

深い抑圧により、集合意識の声と一体化しているからである。
そのため妙な自信がある。笑
なにせ全人類が積み上げてきた普遍的な概念をバックにしているのだから。

すべて自分の既存の価値観のなかで勝手にあてはめて解釈してしまう。
自分の人生、その経験から導き出した法則がすべてで、他者もそこにあてはめてしか判断できない。

だが、人は皆が皆、上下優劣で受け入れを判断しているわけではない。
実際のところ、普通のひとたちの受け入れの基準は直観である。
身も蓋もないことをいえば単純に「好き嫌い」で判断、選択しているにすぎない。

もちろん、頭でも計算することはあるが、やはり最終的には心の声、直観で選んだ方が悔いが残らないからだ。

決して上下優劣の問題ではない。
だが彼らのなかでは、「上」「正しいこと」「レベルが高いこと」→当然受け入れなければいけないこと、という図式がある。
逆に言えば、他者が彼らの主張を受け入れないということは、相手から正しくない、低レベルだと「下」に見られていると誤認識する。

自他境界があいまいなため、その図式は共有されているという無意識の思い込みまである。

そのため「上」であるはずの自分が受け入れられないのは、
内容の真偽やレベルの高低の問題と解釈し、どれだけ自分は正しいか、レベルが高いかを主張し続けて話にならないのだ。

内容ではなく、「あなた」を必要としていない。
「あなた」を通した情報を拒否しているだけである。

更には、自他境界がないため、自分が「上」だと思っている人を取り込み、あのひとも言っているんだからと言って、捻じ伏せようとする。

推しはファンにとっては神でも、興味のないひとにはただの人である。
ファンにとってはプレミアム価格がつくグッズも、別に転売目的でなければタダでもいらないのだ。

これは上下優劣ではなく、組み合わせというか、相性の問題である。
すべてのひとから尊敬され、受け入れられる人など絶対に存在しないし、
彼らにも受け入れられないひとは普通に存在しているはずである。

もちろん誰だって「良かれとおもって」しゃしゃり出てしまうことは普通にある。
特にあきらかに怪しい話などは、全力でしゃしゃりでて頑張って止めようとする。笑

ただ、そこで拒否されれば引き下がるのが普通であるし、時間が経てば、しゃしゃり出た自分が恥ずかしくなる。申し訳ない気持ちになる。
たしかに受け入れてもらえなかったのは残念だし、悲しいが。
普通は別に自分自身が否定されたとか、なにより「下」に見られた、差別されたという意識には、まずならない。

たとえ自分の意見が正しかったからと言って、なぜ相手が受け入れなければいけないのか?そんなの相手の勝手である。
法やモラルに反していない限りは、誰を、何を、受け入れるのか、完全に個人の判断と選択の自由である。

上記のことが受け入れられないのは、相手の自由意志を認めていないからである。
自分と対等な尊厳と権利を有する存在と認識していないのだ。

負の連鎖を受け継いだ自己愛的な加害者たちは、基本的に上下関係としてしか人間関係を築けない。
本当の意味での「対等な関係」が理解できない。
対等なはずの友人関係も自分が「選ぶ側」なのだ。
優位な立場での関わりを好む。というか本音ではそれ以外の形では関わりたくないのだろう。

彼らの歪んだ承認欲求は異常な優越欲求 として表出する。

その弊害はざっくりと二つある。

一つ目は

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