負の連鎖を断ち切るか否か、その分水嶺 Ⅴ
自己愛的な加害者への対応の最適解と最大の復讐とは
負の連鎖を受け継ぐ自己愛的な加害者たちの真の目的は、おそらく本人たちも無自覚なのではないかと感じている。
結論から書くと「他者に優位な立場から、自分の影響を与えたい」
そして、それは目には見えない、無意識の領域における影響なのがポイントである。
この一点だけではないかと感じるのだ。
特に嫉妬やコンプを「感じさせる」相手を自分の影響により、変化させたい。
実際の行為行動はもちろん、ターゲットの心や感情に影響をおよぼすことで無意識に満足感を感じて、安定するのだ。
相手を変えたい。
それは実はどんな形でもよかったりする。
手段だけでなく、結果も選ばない。
もっとも手段は理想は尊敬や憧れ、崇拝によって影響を受けてくれることだが、それが無理なら嫌がらせや執着などの加害行為になる。
卑怯な手段によって、優位に立つことに抵抗がない。
悪事をほのめかすことで、優位なポジションに立ったつもりなのだ。
本質的には賢い人でも、普段の知性はどこ行った?という感じになる。
自分の影響によるターゲットの「変化」がかれらの深い領域での満足感をもたらすのだ。
偽りの自己肯定感に直結する。
上記の真の理由については前回Ⅳの記事の有料部分で深く考察、洞察している。
一般的に理解できる損得や、打算では説明ができない加害が存在する。
目的のない加害である。
わたしもはじめて経験した。
たとえ、自分には何のメリットがなくても、むしろが損しても、評価を落としてでも相手に影響を与えることに執着する。
自己愛がもうバレ切っているのに、何度も何度も同じことを繰り返すのは、無意味でバカげて見えるが、実は深い理由があると感じている。
見えない無形の領域に影響を与え続けているのだ
決して関わってはいけない人が存在している。
極道ほど信心深いと聞いたことがあるが、
むしろ自分を基本的には善人と認識しているひとのほうが厄介なのだ。
経験がなければ、見抜けない。
普段は良識的で常識的でも、豹変する人は存在する。
普段の人となりをみて、「対等な人」として相手に敬意をもってお願いするスタンスは「下」として見下し、弱さや隙だと認識してどこまでも付け込もうとする。
恵まれている(と認識している)人は利他的である義務があると思い込んでいる。
なぜここまで嫌がらせされるのか?わたしは何かしたかな?と
数年前を振り返ってみたら、リスクを負ってまで助けていたのだが 笑
もちろん、忘れていたぐらいだから恩に着せたこともないし、
見返りなどまったく求めていないが、加害される筋合いはない。
わたしが4.5回もIDやクリエイター名、記事タイトルを変えて逃げ回り、
もうめちゃくちゃでビューも信じられないほどガタ落ちているという記事を書いたとき、
ほぼ同日に自分のSNSフィールドにおいて、今回はとても楽しく執筆できた。自己最高のPVだったと更新する。
別のフィールドでは劣った相手として「指導」する内容まで書く。
(それを最後に二度と相手のフィールドは訪問していないので、今の様子は一切分からない。今後も二度と開くつもりはない)
なぜ楽しいのか?まったく罪悪感がないのか?
言動のすべてが深い無意識に突き動かされたものだからである。
影響をまったく受けない。
一切、自分のスタンスは変えない。
これが彼らへの対応の最適解であり、最大の復讐である。
もちろん理想のスタンスではあるが、
彼らは死に物狂いで影響を与えようとしてくるので、
現実的にはまず物理的に距離を取る、場合によっては公にする、法的措置をとることが重要なのは言うまでもない。