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mirabilis feles 共有する過去と特別な絆 Ⅸ
生命への畏敬 自然への畏敬
猫の生まれ変わり 今承が傍にいる奇跡。
12月に入って、承の主食?であるタラを年末年始の築地のお休みに備えて
多めの冷凍保存、在庫の確保を始める時期がきた。
年末の恒例行事である。
クリスマスやお正月が近づくと、ただでさえ物価高で強気なお値段がますます高騰するから今から準備する。
物価高はタラにも強く反映されていて、旬の時期だというのに切り身が薄く、ちっちゃくなっている 笑
お魚屋さんで加工日当日に入手したものをひと切れずつ大切にラップに包み、日付シールをペタッと張ってジップロックで冷凍保存する。
デパ地下の大きな切り身は意外とお買い得で、半分にしてもぷりぷりとした美味しい身が十分についている。
よく食べてくれるムッチムッチボディは抱っこするとコンパクトにまとまって可愛い。
朝目を覚ますと、今の時期たいてい承はわたしの足元近くか、おこたの中にいて、ベッドのなかで動かずに天井を見つめているだけでも
気配で気がつくのか、喜びの声をあげていそいそと全身をすり寄せてくる。
抱き寄せると、わたしの腕の内側に顔を埋めて、愛らしい声で鳴きながら頭を擦り付けてくる。
ベッドから起き上がると、ピンと立てた尻尾を激しく震わせながら、
ぴったりとわたしの後ろをついてまわる。
カーテンを開け終えて、承を抱き上げる。
きめの細かい肉がみっちりとついております!これ脂肪じゃなくて栄養ですから!と主張するボディのズシッとした重さが両腕にかかる。
毎朝繰り返されるルーティンだが、12月に入ると本当になんともいえないおもいで胸が一杯になる。
満月が近づくにつれ、罪悪感とありがたさでふとした瞬間に涙がでそうになる。
以前と瓜二つの承、「承ちゃん、帰ってきてくれてほんとうにありがとう」
話しかけようとする言葉が、声にならない
胸とのどがつまって、声がでないのだ。
いてくれるだけでいいのだ。
たとえうんぴー事件を起こしても、まったく腹が立たない。
おととい、トイレの中に一個、近くにも落としていた。
その日はあまり構わなかったから、当てつけなのか?失敗したのかはわからないが、まったく怒る気がしないどころか、可愛くて涙が出そうになる。
カーテンの近くでふてぶてしい態度、ふてくされた顔をしている承に
「承ちゃん、好きだよ」と呼びかける。
ほんとうにいてくれるだけでいいのだ。
承はそんなときはいつもふてくされた顔で、おこたやカーテンの影に隠れるのだが。
いつものやらかした後とは違うわたしの異変に気がついて立ち尽くし
「え?この人、今日はいったいどうしちゃったの?何が起こっているの?」と不安げな様子でそわそわしていたのが、おかしかった。
戻ってきた赤ちゃん猫は、ほんとうにまったく鳴かなくて、まさかこの子声が出ないんじゃないの?と不安になったことを思い出す。
声が出るようになったはいいが、その鳴き声はとても猫とは思えない、
ピギャーピギャーと鳥のような発声で、このままずっと鳥みたいなままなのか?と心配した。
余りにも小さいからだは、抱っこをすると嬉しそうに喉を鳴らしながら、
同時になぜか震え出すことが頻繁にあり、調べると幸せ震えだという説と、
病気や障害の可能性が記載された記事もあり気が気ではなかった。。
今となってはすべてが嘘のようだ。
そんな不安があったことすら、すっかり忘れていた。
毛皮の色以外はこんなにもなにもかもが瓜二つに育つなんて。
好きなものも、お気に入りの場所もすべてが以前とまったくおなじだ。
奇跡は、意外と奇跡としては受け止めないものだということが、
実際に体験してみるとわかる。
なぜか当然のごとく、自然なこととして受け入れているのだ。
普段はまったく、意識しないぐらいに。
これまでの奇跡といえる経験もまったくおなじだ。
常識ではとても考えられない、こんなことがほんとうに起こるのだ、
人によっては怖くなるひとも多いだろうな。。という経験はこれまでも何度もある。
ただ自分にとっては、自然なことなのだ。
頭ではありえない奇跡とわかるのだが、なぜか感覚がそう受け止めないのだ。他人事というのとも違う。
無理やり理屈をつけるとするなら、それをすでに先取りしていた。
無意識に先取り出来ていたから、普通のこととして受け入れていたのかもしれないが。
だが、その「考え」さえも既知を組み合わせて、捻りだしたものである。
直観的なものではない。
それは、そのスタンスは願いを叶える上で大事なことだとおもう。
ただ、感謝のきもちを忘れがちだったなとおもう。
以前とまったく同じお気に入りの場所、ソファのファーの上で、
まったく同じ向き、寝顔で眠っている承を見ながら改めておもう。
自分のちからではない。
すべてはもたらされたもの、自然からのギフトなのだと。