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負の連鎖を断ち切るか否か、その分水嶺 Ⅱ
公にすることで、からくりが明確になることで、「落ちる」ものがあるからわたしは記事にしている。
負の連鎖を受け継ぐか否か、前回の記事の続きになる。
「まずベースには非常に強い「抑圧」があることは共通している。
抑圧が強いと、頭で考えることと自然な感情が乖離しがちである。
これはオカルト的だが、「引き継がれてるもの」も大きいと感じている
そして、基本的に自他境界があいまいである。」
上記にあげた中でも、やはり一番のポイントは「抑圧」だと感じる。
自分の理不尽な苦労経験を正しく認識できずに、感情ごと抑圧することでどうやら「理不尽に苦労した方が偉い、立派」「人としての立場が上」という無意識の強い価値観が形成されるようなのだ。
恵まれていて苦労が少ない(と勝手に判断した)相手を無条件で「未熟」「世間知らず」「視野が狭い」「人として下」とカテゴライズする。
上が指導する存在であり、下は当然その指導を受け入れるべきである
人間性や生き方に、相手が求めているものを一切有していないにも関わらず、「上」として影響を与えようとする。
日本人全体にその古い価値観は蔓延している傾向はあるが、問題は無意識で一切疑問すらもたず、他者に当然のごとく押し付けることである。
尚、その恵まれているとか、苦労の有無の判断基準は、単なる独断と偏見である。
よく知らない相手であっても、自分の勝手な価値観や基準をもとに決めつける。
更に恵まれている(と勝手に認識、解釈した)相手に対する幻想がある。
なぜか恵まれている人間は利他的で当然のような思い込みがある。
人格者であることが義務のように考え、そうでなければ責められて当然のようなふしさえある。
なぜか自分を助けることは当たり前なのだ。当たり前のことをしただけなのだから、恩などではない。
「返す」必要などないし 仇で返しても何の問題もない。
なぜ苦労を美化するのだろうか。
確かに苦労が昇華され「糧」になっていれば、そのとおりかもしれない。
だが理不尽な苦労により、性格がねじ曲がり、底意地が悪くなり、他者に加害するようになるならその苦労は無意味どころか、害悪でしかないだろう。
性格が捻じまがれば、まっすぐにものが認識、解釈できないのだから、必然的に頭も悪くなる。
理不尽に苦労したこと、その経験そのものが問題ではない。
その苦労を正しく認識、解釈出来ずに、そのとき感じた自然な感情ごと抑圧してしまったことがまずいのである。
苦労にはざっくりと二種類あるとおもう。
一つは不可抗力というか、じぶんが望んでいないのに理不尽に降りかかってくるものである。
選べない環境下での苦労である。代表例としては毒親やパワハラ上司などがあげられる。
もうひとつは、自らが望んで投じた環境や状況下における苦労である。
これをしたい、ここで頑張りたい、と自由意志で決定した結果の苦労である。努力とも言い換えられる。
その選択した現実が思っていたのとは違っていたり、想像以上の厳しさであったとしても、前提としては「自分が納得して選択したもの」である。
この違いは大きいと感じる。
選択が間違い、失敗だったとしても「自分が納得して選択したもの」なら自分のなかで折り合いをつけやすい。
なにより、その失敗、苦労を歪めず正しく認識出来るのだ。つらいことをつらいと正直に認識する。
この歪めずに「正しく見る」ということは非常に大事だと感じる。
理不尽なことは、理不尽なことなのである。
納得できないことを、むりやり「普通のこと」「よくあること」だと納得させることによる「抑圧」は歪んだかたちで表出する。
特にそれが選択肢のない、幼少期であれば非常に根深いものになる。
他者も「同じおもい」をさせなければ気がすまなくなるのである。
もちろん、どれほど抑圧が強くても、
どんな状況下でも、誰彼構わずそうなるわけではない。
リアルでも似たような経験があって、ようやく腑に落ちた
組み合わせによって、
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