失敗する権利
ここ2-3年で今さらだけど実感して学んだことがある。それは、他人の失敗する権利を奪ってはいけないということ。
あまり自覚すらしていなかったのだけど元々私は何かと世話焼きで、特に仕事の場面では「ここまでわかりやすく言えば絶対ミスらんだろう」と言わんばかりの充実したマニュアルを作り、常にリスクヘッジに目を光らせ、かいがいしく周りの進捗管理し「もっといいやり方があるよ!」と聞かれてないのにアドバイスしがちな監視カメラおばさんであった。(まあ今も基本そう)
そういうやり方はある意味では感謝されることも多い。確かにミスは起こらない。部下は早く完璧に仕事を覚える。
そう、完璧に。ただ、覚える。
でもそもそも、私の考える完璧なやり方を提示してそれに沿わせることで人は成長するか?
いやしねえだろ。
会社で働いてた頃、別部署の男性マネージャーで私と真逆のマネジメントをする人がいた。
「求める成果と期限だけ伝えて、どうやるかは相手に全部任せます」と彼は言った。
確かに彼は、聞かれない限りは何も口出ししない。自ら細かい進捗管理シートを作ったりもしないし、それ自体を部下にゆだね、どこまで細かく管理するかも含めて本人が考える環境を作っていた。
結果、ポンコツな部下が水面下でとんでもないミスをしでかし、私がたまたま発見して報告したこともある。「それみたことか」と指摘する私にも、彼は感謝だけ示して大きくやり方を変えるようなことはしなかった。
ミスの原因解明と今後の対策は部下本人にさせて、彼は全面的にそれを信頼して委ねていた。
もちろんこのマネージャーの彼が仕事してないわけではなく、彼はそのやり方できちんと結果を出していたし、部下が各々のやり方で活動していても、その結果をまとめて分析して「できてる部分」を報告するのが異様に上手かった。なので会社からも評価されていた。
私は、それがマネジメントスキルであると知った。彼の部下は、自分のチームにいる誰よりも、のびのびとして見えた。
今はその会社からは離れて時間が経ったので、冷静にこういうことも振り返れるようになった。渦中にいる時は「そんなテキトーなやり方、ダメ絶対!」と思ってすらいたし、自分が正しいと信じていた。
でも最近になって思う。
人は失敗する権利があるのだと。
これは仕事に限らず、家族や友人や恋愛関係においてもいえることだと思う。
相手を心配したり、苦しむ姿を見たくないと思うあまり…。私たちは過保護になってしまう。
それは思いやりだけに限らず、自分の求める正しさの押し付けであったり、相手の役に立ちたいという承認欲求の現れであることも。
もちろん本当に深刻なリスクを伴い慎重に管理しないといけない場面もあるが、そうでないものは適度に手放さないと、他人の成長する機会まで奪ってしまうんだよね。
人には失敗する権利がある。
それを自分のエゴで奪ってはならない。
絶対転ぶとわかってても、他人が自走して転んで立ち上がるまで見守るべき時がある。
案外転ばないかもしんないしね。
私は子供の頃、親があまりに放任主義だったので「なんでも自分で決めなくてはいけない」ことが苦痛で、むしろ「管理されたい、方向を示してほしい」といつも思っていた。
親にあれをしろこれをしろ、あれをするなとか、一切指示されたことがない。全然記憶にない。
そんなだから、自分の親は子の行く末を何にも考えてなくて、子供を放置している特殊な人達なんだと思って生きていたのである。
でもそういうことではなかったんだなと、大人になってから気づいた。
兄が離婚して間もない頃に子連れ再婚した時、私は「そんなにすぐ結婚決めて大丈夫かな、連れ子を育てることになるのに…」とうっすら心配していた。
でも父母は「それで失敗するとしても、それは本人の人生だから」と一貫して何も言わなかった。実は前の奥さんには結婚当初から違和感があったけど、本人の選択だから何も言わなかった、ということもこの時に明かされた。
私はやっと理解した。この人たちはずっとこうやって、伸ばしたくなる手をグッと抑えて、子供が失敗する機会を奪わないように徹してきたんだなと。
母曰く私が若かった頃、帰りの遅い私に今日こそ連絡しろという父と、頻繁に口出しするもんじゃないという母の間で常にせめぎ合いが生じていたらしい。彼らは何も特殊な人達ではなかった。ただ信念が強かった。
私は人生において地獄のような失敗を数えきれないくらいした。これからもすると思う。
でも、もし今まで私の親が常に先回りしてその失敗を全て阻止していたら、私は味噌汁の上澄みのような人間になっていたであろう。
人は失敗する必要があるし、傷や痛みがその人を唯一無二にする。
かいがいしく誰かのお世話をしている時、それは本当に相手のためなんだっけ?と一旦踏み留まる冷静さと、何もしない勇気を持ちたい。
人が失敗する権利を奪わないために。