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能力差で区別したらどうなるのか

仕事をしていると、人には能力差があることを嫌でも感じるときかあります。企業でリストラが当たり前になって、40代当たりの引きこもりとかも問題になっている記事を見ると「まあ・・会社にとって給料払う価値無しという判断なのか・・・・。それとも、新しい環境で頑張ってほしい・・なんて言っても、要は君の能力はここでは必要じゃないということか」そんなことを思ってしまう。

確かに働く側に選択の余地があるように聞こえる場合もあるけれど、必要なら出さないよね・・・

能力差ってどうしたってあるわけで、しかもそう簡単に適材適所で発揮できることもない。じゃあ、やれる人だけを優遇できる環境ならお金で差がつけばやりがいもあるでしょう。でも、その部署でやり続けることで能力が発揮できない人たちはそこでの評価がついてまわって、結果リストラへの道まっしぐらなんてこともある。

みんなが「半沢直樹」じゃあないからね。
勿論、みんな「半沢直樹」だったら組織はもたないしなぁ。  

目の前で給料に差があれば、一生懸命やってる人たちは溜飲が下がるかもしれない。でも、そのお荷物さんたちが、さきざき「生活保護」とかになれば税金で養うことになるから、結果同じなのよね。
共存社会・福祉社会・・・助け合い・・・目の前の差を非難しても、しょうがないことに気が付く。  

小泉政権の罪は非正規雇用を増やし過ぎたこと。社会がそうしなければ持たなかったというけれど、結果的に税金に頼る人を増やしたようにも思う。  

共生社会って難しい。
人を適材適所に配置できないし、その能力差を図れる人も少ない。
結局タダ働きを強制されて結果を出して・・・同じ給料で我慢して・・・
今はそれが問題だと声高に言われていて、働き方改革っていうけれど
時間で制限するだけの改革じゃ結果的に会社がだめになるでしょうね。

仕事ができる人のところには仕事が集まるし、仕事ができない人には仕事も人も来なくなります。それを良しとしている人も少なからずいるとは思いますが、結果的にそうなる人は、なぜ自分が窓際に追いやられているのか理解していなかったりする。
つまり、自己認識は仕事ができないとは思っていないのですね・・・
そういう人は、年を取ってそうなったわけではなく、若い時からそういう人なので価値観はずっと変わっていないわけです。

思うに

そういう能力差を区別して適材適所に人間を配置して、仕事の効率を最大限引き上げる・・・なんてことはその個人データをすべて管理してAIに判断させて、会社経営やらせれば簡単だよ。って考える。
映画で見るような世界が登場するわけだ。
客観性と効率的判断・・・多分データ化されればAIなら簡単にできる。
マザーコンピューターが支配する世界・・・なんていうのが現実になってしまったり・・・  

効率第一主義の行く末は多分そういうこと

人を減らし、効率をあげて利益を拡大する。この構造の行く末と未来の姿に希望を見出せなくなるもの無理はない。能力差は区別できればストレスも軽減される。同じような人を集めることで最大の効果をあげるかもしれない。
取り残された人たちはどうなるかといえば、カースト制よろしくそこから抜け出せない・・・なんてことになったら、会社が支える人は少なくなるけれど社会が支える人が増えていって、結果働く人が減ってさらに負担が増えることになる。  

これねぇ・・・憂いてしまうのは私だけなのかしら・・・

能力主義という美しい言葉に騙されないようにしないと、使い捨てられてしまうし、どこまでいっても競争で生き残りをかけたサバイバルレース。
いまや、個人で起業して何とか生き延びていこうという機運もあるけれど
税金で支える人が多くなりすぎると、会社勤めでも個人経営でも高齢化社会もさることながら、その負担額は増大するわけです。だから・・・少々の事なら給料払って税金を納めてもらった方が結果的に効率がいいんじゃないかって・・・思うこの頃です。

女性の友人ですが、外資の管理職・・・それこそかっこいいのです。
高給取り・自分の個室がある社内環境・・・
その彼女が「結局、結婚出来なかったなぁ・・・でも疲れちゃった。
ずっと成績上げていないと蹴落とされちゃうし、ずっと優秀じゃないといけないのよ・・・息つく間もなく次が来る。なんだかね・・・」
とため息をついた。  

能力を最大限評価されて上り詰めて・・結果、疲れちゃった・・って

考えてしまう・・・誰からも羨望のまなざしで見られていた人。

人はどこかで折り合いをつけなくてはいけないんでしょうね・・・


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