責任感とは完璧主義でもあり、それが生きにくさでもあるのかな。
仕事で感じていることを、夕飯を食べている夫につらつらと話していた今夜の夕食の時のこと。
私は中途半端にすることが気分悪くて、任されたらきちんとやり終えたくなる。だから、同僚のモチベーションが低くてなかなか前に進んでいる感じがしないと、なんかもうどこから手を付けていいのかわからなくなる。
というような話をしていた。
私は自他ともに認める完璧主義なところがあって、0か100かになりがちだし、白と黒もはっきりしていた方が楽だ。それを気持ちよく感じていたし、でも同時に、それが自分を苦しめていることも気付いていた。
それでもそれが、自分の個性だと思っていた。
が。
その、今日の夕飯を食べながらの夫の返答が、ズッシリと心の奥に響いてしまって、今ちょっと戸惑っている。
戸惑っているのは、とても大きな真理に触れたような気がしているからだ。
今そのフレッシュな感覚がハートに残っている状態で書いている。
フレッシュ大事❤
「あぁ、じゃぁ、このくらいでいいか、って適当なところで割り切れないっていうのが、苦しさなんじゃない?すべて、自分のやり方で、思うとおりにできないとだめ、っていうのが。そんなに全部がつじつま合うように進んでいくなんてことないからね。」
夫は、そう言った。
ちなみに夫は、自分の機嫌をとる天才である。そして実際、常にご機嫌である。彼が不機嫌なところを、結婚してこの14年間、2回くらいしか見たことがない。あ、3回くらいかな。
しかし、いつもご機嫌だからといって、明るいおしゃべりではなく、基本無口でしゃべらない。だからつまらない。。。
でも、ここぞという時、神が降臨したような(実際そうだと思う、というか、彼が神なんじゃないかと思う)深い真実をズバッと言ってくれるのだ。
これは長男も同じ。
あ、話逸れた。
「あぁ、じゃぁ、このくらいでいいか、って適当なところで割り切れないっていうのが、苦しさなんじゃない?すべて、自分のやり方で、思うとおりにできないとだめ、っていうのが。そんなに全部がつじつま合うように進んでいくなんてことないからね。それは苦しくないですか?ってこと。」
まったくだ。
まったくその通りだ。
完璧主義で責任感が強く、仕事を任されたら最後までやるし、それで信頼を得てきたとずっと私は思っていたが、
もしや、これ、
ただただ私がわがままだっただけじゃね?
その上、周囲の人たちがやる気ないだの、やり方が雑だの、ちょっと…いやかなり上から目線で言いたい放題言ってた私って、
イタイ人じゃね?
そうやって、思うように進まないのは周囲のせいだ、ということにしてきたのは、もしかすると私自身が自分の弱さを見るのが怖くて、見たくないが故にそういうことに仕立て上げてきただけの罠だったのか。
私はできない人です。
私は無能な人です。
私は無責任な人です。
私は成し遂げられない人です。
私は…
不完全な人です。
そ、そんなの、当たり前じゃないね。。。
完璧な人なんて、いるはずないじゃんね。。。
そしてだからこそ、完璧なんじゃんね。
私が必死にしがみついていた、大事だと思い込んでいた何かが、ふわっと手から離れていったような瞬間だった。
いや、まだ、その途中なんだけれども。
そんなに必死になってしがみついていたことだったけれど、それが離れていくと思ったら、なんだかとても楽になったような感じがしている。
もっと、ふんわりでいいんだ。
もっと、軽やかでいいんだ。
もっと、やさしくていいんだ。
もっと、もっと、楽しくていいんだ。
最後まで責任を負うって、どういうことなんだろう?誰かの何かを、赤の他人である私が引き受けられると思っていたとするなら、そんなの思い上がりに他ならない。
完璧主義って、どういうことなんだろう。すべてが寸分違いなく完璧であるってどんな状態なんだろう?そもそも完璧っていうのは何だろう?どういう状態だったら完璧と言い切れるのだろうか?
自分が完璧である、できる、という前提に立って何かをしようとしていたとするならば、私はとても大きなものを見落としていたということになる。
上からものを見て、言って、切り捨ててきたもの、見落としてきたものがどれだけあるのだろうか。ゴールだけを見て、そこまでの道のりの風景を全く見てこなかったとするならば、それは明らかに、悲しいことだ。
そしてそれは、私が見たい景色では、ない。
夕飯を食べ終え、食器の後片付けと、洗濯物をたたんで各自のクローゼットに配り終えた夫に、さっき私が聞いたことなんだけどさ、と声をかけると、軽やかに、
あー、あとでねー!
と、軽やかにかわされた金曜の夜。
そろそろ金ロー終わるのかな。
さ、寝よ寝よ。
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