86/1095 しっかりと怒り、しっかりと守る。
坂爪圭吾さんの記事に、肚の底が震えた。
特にこの部分を読んだとき、自分の中にいるもうひとりの自分がガッツポーズをとる姿がありありと見えた。
ここ1ヶ月ほど、怒りの奥にある寂しさや悔しさを「孤独」という名の下に味わっている自分に気付いてきた。それを周囲のせいにしたがっているのを、「私が未熟だからだ」という理由で引き受けている自分にも気付いていた。
私が未熟なのだから、私の意識を変えることが大事だ。
周囲のせいにしたがっているのは、私の器が小さいからだ、
自分の器を大きくするためのお試しなんだ。
そう、自分に言い聞かせるようにしていた。
それでも現実で何かが起こったり、何かを言われたりするたびに感じる、「あの感覚」。無理やり引きちぎられるような、勝手に持っていかれるような、領域に侵攻されるような、屈辱感にも似たような「あの感覚」は、まさに
という感覚そのものだった。
「私の時間を軽んじやがって」
という言葉が口をついて吐き出され、そしてその後に感じる清々しい感覚。
「バカにしやがって」
という思いも続いて溢れ出てくる。
相手は自分の写し鏡とするならば、自分が自分自身をそう思っていることになるが、もう幾度となくその解釈のベクトルで自分を痛めつけてきたという経験があるのも事実だ。
そうだ、その通りだ。
いい子になることで解決しようとしてきたのは、この私だ。
感情を表すことを否定し、穏やかに静かに、丁寧に穏便に、Yesということが大人の対応だと、よいことだと、それが正解だと、頭で言い聞かせてきたけれど、それが本音ではないのは明らかだ。
私が言いたいことは、その中に少しも含まれていない。
私はいい子になることで、自分を守ってこなかったのだ。
私はいい子になることで、自分を見放してきたのだ。
ほんとごめんよ、わたし。
守ってあげられなくて、ごめんよ、わたし。
仕事で自分の意見を言おうとすると涙が止まらなくなっていた。周囲が心配するし、余計な気を遣わせるのが嫌で、泣かないように頑張るんだけれども、それが逆効果となってさらに涙が止まらなくなる。優しい言葉をかけられてもだめだ。とにかく会社の人たちと話すと、とめどもなく涙があふれてしまってどのみち心配をかけている。
ふと、「これはまずい状態だな」と自分でも気づいていた。
心が病み始めている兆候かもしれないと感じた。
だけど、坂爪さんの記事を読んで、自分の今の状態や求めていること、必要なことが言葉となって鮮明に理解できたことで、今は心がエネルギーをまた放ち始めた気がしている。
軽く扱われていると感じたら、しっかりと怒って、しっかりと自分を守ってあげよう。
それが自分を生きる責任だ。