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義弟の葬儀にイタリアに行ってきた (4)

帰国してから妹と、義理の妹がどんなに嫌な奴だったかの悪口で盛り上がっていたら、机に立てかけていた義弟の写真がじっとこっちを見ていたことに二人ほぼ同時に気付いて肝を冷やした。亡くなった義弟が「もうやめて」と言っているのを直感で感じて、もう悪口を言うのはやめようと決めた。たしかに裏返して立てかけておいた写真がひとりでにくるっと回って、こちらをじっと見ていた。義妹の悪口で盛り上がる我々を咎めたのだ。背筋が冷える思いだった。亡くなった義弟の愛した人を陰で悪く言うなんて、たしかに良くない。

悪口で盛り上がるという表現は間違っている。私は帰国して20日近く経った今も、あの一週間彼女と過ごした中で傷ついた思いを今でも引きずっているし、傷は癒えるばかりか日に日に膿んで痛みを増している。腑に落ちない思いを一人で抱えるには辛すぎて、せめて身内に話すことで心を落ち着けるほかなかった。

もう隠しようがない事実。義妹は私のことが嫌いだということがハッキリわかったし、私も大嫌いだ。もうこの人に歩み寄るのは無理だと悟った旅だった。

始めて出会った頃はフレンドリーだった。初対面にも関わらず私にがんがん話しかけて来た。彼女と義弟の住むインドネシアにダニーロとはじめて遊びに行った時も快く泊めてくれたし、ダニーロとジェロニモが寝てしまってから「ちょっと一杯つきあってよ」と声をかけてくれた(ただ、話がまったく盛り上がらなかった)。友達が多く、インドネシアでの友達をたくさん紹介してくれた。景品なのか、ブランドロゴの入った手帳の1ページ目に「With love」と書いて自分のサインを入れて私にくれた時は、可愛い人だなと思ったものだ。会ったばかりの頃はまだ、私に対するトゲトゲしさはなかったように思う。

ただ、彼女と一緒にいると「ん??」という思いをすることが最初から多かった。数えたらきりがないが、インドネシアの中心街で洋服を買おうとみんなで買い物に行った時のこと。気に入った服もあったし何着か試着もしたけれど、やっぱり全部しっくりこなかったので、彼女がどうしてもあなたにと私にゴリ押ししたスカートを仕方なく一着買っただけの私に「あなたはちょっと買い物のしかたを勉強すべき」と言い放ったのだ。

どんなに時間をかけて最終的に何も買わなかろうと、私の財布から買うのだから、本来は誰に文句を言われる筋合いもないのだ。私の買い物なのだから。

余談だが、私は身に付けるものを第三者(親友のように仲の良い妹ですら!)と一緒に買いに行くと100%失敗するので、必ず一人で行くと決めている。その場のムードや、その人が私に選んで欲しいであろうものを感じ取ってしまったり、わざわざ一緒に買い物に来たのに結局何も買わずに帰るしらけたようなムードが相手に悪い気がして、「限りなく自分が欲しいものに近いけれどこれは違うと明らかにわかっているような微妙な物」をパフォーマンスとして買ってしまったりと、自分のアンテナが鈍りまくるので、本当にダメなのだ。

そのほか数えきれないほど、彼女の言動には「は?」と感じることが多々あった。たとえば私がNY出身の英語の先生に習ったフレーズを使ったら「よくそんな言い回し知ってたね。でもそのフレーズ、ヨーロッパでしか使わないよ」と言い放ったことがあった。

インドネシアの騒がしい軽食屋で私が「インドネシアでの生活ってどんな感じ?」と気軽に聞いただけなのに「ちょっと。。。ここには現地の人がいるんだからそんな質問やめてよ」信じられない!非常識!といった風に、血相を変えた。そんなに怒ることだろうか。というか、私は現地の悪口を始めるつもりなど毛頭なかったのに。

いつかみんなで一緒にでかけたときも、自分の重い荷物をうちのダニーロにずっと持たせていて、私は腹を立てていた。ダニーロもダニーロだ。重そうにしているのなら、せめて彼女のパートナーであるジェロニモに持たせればいいのに、人がいいダニーロはずっと彼女の買い物(たしかSABONとかいうブランドの、重い瓶に入った大きなボディスクラブをいくつも買っていた)を持ちにくそうに抱えていた。彼女は重い荷物をダニーロに持たせ続けて、自分はあちこちの店を楽しそうに見て回っていた。あの時どうして私は「自分で持ちなよ」と彼女に言えなかったのだろう。

彼女の言動にいちいち反応して嫁どおし(まぁ私は嫁ではないわけだが)喧嘩をしてたらいい笑いものなので、体裁を気にして私はいつも腑に落ちない思いをグッと飲み込んでいた。それだけではなく、場が丸く収まるならばと(というか反射的に)彼女に怖い顔で噛みつかれるといつも、謝っていた気がする。

私は彼女よりも一週間だけ先に生まれた。つまり彼女と私は同い年だった。彼女は聞けば誰でも知っているような世界的に有名な大企業に祖国(彼女はイタリア人ではありません)で就職し、色々な国で働き、転勤で来たインドネシアで義弟と知り合った。インドネシアの物価が日本よりもだいぶ安いことを差し引いても、かなり贅沢な暮らしをしていた。英語もイタリア語も母国語ではないのに、特に英語に関しては仕事で毎日使っていることもあってか、独特のイントネーションは多少あってもとても流暢だった。海外生活が長いせいか友達が世界中にたくさんいるようだった。

私はといえば友達はほとんどいなくて、独学の英語すらあまり使う機会がなくてユニークな英語しか話せない。やりたいことも何も極めず、何か技術を身につけるわけでもなく職を転々としてきただけの自分に、彼女に対して強い劣等感を抱いていたことは認めざるを得ない。友達は多ければいいわけではないと自分が一番わかっているし、性格的に数少ない友達と深く付き合うタイプなので、それはそれでいいと思っているはずなのに、なぜか彼女と比べてモヤモヤしてしまう。生年月日が一週間しか変わらないこと、同い年として、同じように年下のイタリア男をパートナーに持つ身として、必要以上に彼女を意識していたし、必要以上に彼女と自分を比べては落ち込んでいた。

彼女は怖い顔と大きな声でハッキリとモノを言う。それがいつも頭ごなしで理不尽なのに、彼女の堂々とした態度と流暢な英語と勢いで、言い返せない。それに、私とダニーロには特別に強い態度なような気が最初からしていた。私もダニーロも、人がいいから馬鹿にされるのかもしれない。

そんな彼女が、五年も付き合ってまだダラダラと先の見えない遠距離恋愛を続けていた私よりも先に、たったの交際二年足らずで素敵なプロポーズをされた。彼女の幸せいっぱいなSNS投稿を見るたびに不愉快な思いだったし、旦那となった義弟と一緒に撮った写真に「ジョルジ家からみなさんへ、HAPPY NEW YEAR !!!」というようなメッセージを付けた投稿を見ると、私だけジョルジ家ではない疎外感を感じた。これが私へのあてつけだと思うのは私の被害妄想だろうが、かなりの不快感を感じていたことはたしかで、結婚してすぐに彼女がSNSの自分の名前にGiorji(ジョルジ)を付け加えたのも、私はおもしろくなかった。

これまでのわずか三年半で私が彼女に抱いてきたドロドロとした感情を書き連ねただけで3000文字も費やしてしまった。私の勝手な劣等感や嫉妬もおおいにあったけれど、私は彼女に対して失礼な態度をとったことはないつもりだ。

とにかくこの3000文字の記事で、彼女の攻撃的な性格に対する恨み、積み重なった理不尽な思いから、私が彼女に対して特別強い負の感情を抱いていたことはわかって頂けただろうと思う。そして、義弟の突然の死と葬儀で、私たちの不仲は決定的なものになった。彼女が私を大嫌いなのはハッキリとわかったし、私も彼女のことが大嫌いだと改めて思った。そのことを次回の記事で書いて、この汚い感情を成仏させようと思う。

それにしても彼女は、ダニーロとの結婚を戸惑うほどの強烈なキャラだった。彼女と家族にならなきゃいけないなんて、お先真っ暗だと本当に思っていた。ジェロニモはなんでこんな女を選んだのだろうと。彼女の何が嫌かって、彼女に友達が多いことからもわかるように、そういう意地悪な態度をする相手を選ぶところだった。彼女はフレンドリーで明るくて、堂々としている。リーダーシップもある。よく笑いおしゃべり好きで、甘え上手のしっかり者だ。そして彼女の友達は一人残らずみんないい人たちだった。

いじめにあっている人はこんな気持ちなのだろう。そんな彼女と一緒にいると、私という存在が透明人間のように感じる。そんな彼女は私と目を合わせることもない。彼女から好意的に話しかけてくれることもない。そしてたまに話しかけてきたかと思うと、とんでもない意地悪を言うのだった。私は彼女を見るのも怖かったし、姿をみると何となく隠れてしまいたかった。彼女と一緒にいると、どこでまた怒られるか予想もつかなくて怖くて、萎縮してしまうのだった。

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Mio | エッセイ
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