コロナ禍のヨーロッパで結婚企画(6)スイスからイタリアに渡って結婚手続き・ロングジャーニーの果てに_最終回
南イタリアの彼の田舎の小さな空港に着いて、彼のマンマをみつけるのは意外にもたやすいことだった。空港には予定時間きっかりの21時45分に到着した。3年前の真夏にダニーロとここに遊びに来た時と同じ空港だ。あの時と違うのは、今回は夜で、秋の終わりで、そして私一人だってことだ。
空港の出口からロビーを見渡しても見当たらないので、タクシー乗り場まで出ると、私はすぐにダニーロのお母さんをみつけることができて、大きく手を振った。時間に余裕をもって家を出てくれたようで、私をみつけると「早く着いたんだね」と言った。本当ならハグのところだが、お母さんもお父さんも(ダニーロのママ・パパのことを以下こう書きます)フィストバンプをよこしてきた。
お母さんは車でどこかへでかけるときいつもそうするように、ペットボトルの新鮮な水と使い捨てのプラスティックのコップを持って来ていた。車が発車するとすぐに助手席から「飲む?」と聞いてきたので、もらうことにした。空港のパーキングチケットが機械に入らないと言ってお父さんが憤っている。お父さんはビール腹で、竹を割ったような性格で、声がとても大きく、気が短い。「おめぇ、寒い寒いってそんな薄着じゃねえかアホか」みたいに、思ったことを気にせず大声で言う。
マンマ(ミーア)とつぶやいて車を出て、自動精算機にコインを入れている。どうやら早く着きすぎて、延長してしまったらしい。
この二人の顔を見たら、今まで一人抱えていたプレッシャーや不安がどっと抜けて、水を飲みながら自分の家の車に乗り込んだような安堵を感じていた。結婚を決めるか決めないかの決断をちょっとお預けしたような気持ちになって車の外の景色を眺めていた。
空港からダニーロの実家までは車で1時間。私がイタリアに着いた翌日の11月6日から、イタリアではコロナの危険度別にゾーンを色分けして感染症対策をする政策がスタートした。私の向かう街はオレンジで、危険度は高・中・低の「中」。自分の住む街と州からの移動禁止、夜22時から朝5時まで外出禁止という規制がかかっていて、この日空港に私を迎えに来てくれるためにお母さんは警察まで出向き、22時以降の外出許可証をもらってきてくれていた。
もうすぐ家に着くというところで、カラビニエリというイタリアの警察軍(海軍などと並ぶイタリア軍の構成要素の一つ)に止められ、お父さんが車の窓越しに色々質問された。長引いている。私は息をひそめていた。最後に私はパスポートを提示するように言われ、それでヨシとなってことなきを得た(?)けれど、緊張が走った瞬間だった。
そもそもこんな危険な思いをさせてまで結婚手続きを続行しようとしていることでさえ申し訳ないのに、私の心の中に迷いが出てきてしまっていることは、お母さんやお父さんに対して本当に心苦しい思いだった。3年ぶりのダニーロの実家に着くと、お母さんは私の全身と靴の裏にスプレーをかけた。
ダニーロの実家に着いたのが11月6日金曜日の夜。7日と8日の週末が過ぎるのを待ち、9日の月曜日、県庁で結婚に必要な書類に認証のスタンプを押してもらう。
その後、市役所に行って予約。その予約日にダニーロにチューリッヒからイタリアまで来てもらって一緒に書類を提出し、2回の日曜日を含む8日間の公示期間を経て、この間に我々の結婚に反対する人が現れなければ結婚式の予約をするというスケジュールだ。
ダニーロの故郷まで来たものの、私の気持ちはまだ行ったり来たりしていて、こんな気持ちで結婚をすすめるのは正しいことではないという思いだけがはっきりしていた。今ここ南イタリアのダニーロの実家ではオリーブの収穫が忙しく、私も手伝いながら、時差をみて日本の親友に電話をし、長々と答えのない話を聞いてもらっていた。そうでもしていないと気が狂いそうだった。「そんなに追い詰められてること、ダニーロは知ってるの?ダニーロと話すのが一番だよ」
本当にその通りだ。
「結婚するにしても、しないで日本での人生を選ぶにしても、どっちを選んでも後悔しない人生に、あなたがするんだよ」
ダニーロの実家はなぜかとても寒かった。私はダニーロが少年時代サッカーをするときに着ていたというジャージを借りて、ダニーロが18歳まで過ごした部屋でうつむきながら、そんな親友の言葉を聞いていた。
不安だらけでも、ダニーロの後押しがあれば頑張れる気がする。大丈夫。一緒に頑張ろう。そう言ってくれれば。しかしダニーロも、私との結婚に不安を抱えていた。ダニーロの休日に電話をすると、とても機嫌が悪い。県庁に行く前日の夜だった。私がダニーロの洗濯物を洗わずにイタリアに来てしまったせいで、せっかくの休日が洗濯に潰れたと怒っている(同居人が洗濯竿を独占してて洗濯ができなかったのだ)。そして給料がコロナのせいで下がったこと、忙しさも売り上げも変わらないのに給料を下げられたと文句を言っている。私は自分の抱えた不安をダニーロに打ち明けた。結婚にともなう経済的な不安、将来への不安、こんな気持ちのまま結婚を進めることへの不安について。気がつくとお母さんが私の横に座っていた。「そうだな。何度履歴書を作れと言っても作らないし、何も動こうとしない。もう君を信じることができない。君が変わらないんじゃ、悪いけど結婚はできない」と彼は言った。
電話が終わるとお母さんは「ダニーロはなんだって?」と私に聞いた。ダニーロの給料が下がったこと。今、私は結婚前で滞在許可証がないから仕事探しができないこと。すぐに仕事がみつかるかもわからず、彼に経済的に負担をかけてしまうこと。話していると泣けてきた。そして私は自分でも思いもしなかったことを口にしていた。「ダニーロの弟の嫁は大企業の正社員で立派な役職もついていて、しっかりと稼いでいるのに、私は自分が情けない」
するとお母さんは手を開いてこう言った。親指、人差し指、中指、薬指、小指。人はみんなそれぞれ違うのよ、と。
月曜日は快晴だった。お母さんたちより早く起きたつもりが、お母さんはすでに起きて私にコーヒーを淹れてくれた。お父さんを起こして県庁へ。車で一時間のドライブだ。私の心が曇っていなければ、今日はなんて晴れ晴れしい日だろうと思う。優しいご両親に歓迎されて、愛するダニーロの実家にお世話になり、今日はいよいよ県庁に行って結婚に必要な書類にスタンプを押してもらうのだ。結婚への段取りが着々と進んでいく。ここにダニーロはいないけれど。
予約の時間より早く県庁に到着するも、タバッキ(イタリアのコンビニのような日用品や雑貨など幅広く何でも扱う店)で16ユーロの印紙を買って来るように言われ、出直した。さらに、書類の割り印が切れているとかなんとかで、「書類は原本じゃないと受け取れない」とゴネられ、何度原本だと言ってもわかってもらえないので、お母さんがローマの日本大使館に電話をして、担当者に代わってもらい「それは日本式の割り印で、半分切れているが正式な書類だ」と県庁の人に直接説明してもらってやっと事なきを得るというトラブルもありながら、なんとか認証のスタンプをもらうことができた。この書類は半年間有効らしい。来年の5月10日だ。
その日は乾いた快晴で、帰りの車の窓を大きく開けて風に吹かれたが、バックミラーから私の表情をのぞいたお母さんが「シリアスな顔して、何を考えてるの?」と声をかけてきた。
なんでもないです、と言ったのに、お父さんは「簡単なことだろ。愛してるか愛してないかだ。こんなに簡単なことないだろ」と大きな声でそう言った。
あまりに心細そうにしている私を見て、お母さんはダニーロに電話で話したようだ。そんな気配を感じた。それに、夫婦で話した気配もあった。ある時から、お母さんの態度が少し変わったように思えた。ダニーロが「みおが働く気がない」とでも言ったのだと思う。
「どうしたいのか、もう一度よく考えなさい」「働くから食べられるのよ」とも言った。少し冷たくなった気もした。
ダニーロの実家も、実家の猫も、車で5分のマーケットも、3年前の夏と何も変わらないのに、どこにいても、何を見ても、私が一人、彼の実家に迷い込んでしまったような変な気持ちになるのは、私とダニーロの心の繋がりが薄くなってしまって、というか、今一番しっかりと手を繋ぎ合って確認しあっていたい時に、すれ違ったまま、話も平行線のまま、私の心とあまりにちぐはぐな景色を見ているからだろう。
ダニーロにとっても新しいスイスという国、チューリッヒという土地で、生活基盤も整わないまま走り出した彼を追っかけて、結婚とか、私のこととか、私の状況とか気持ちのこととか、向かい合う余裕もないし聞く気もないのだった。
県庁へ行った翌日の夜、夕食後にお父さんがスマホを見ながら「11月15日までに感染者数が一定ラインを越えたら再度ロックダウンになる可能性もあるらしい」と言った。するとお母さんがすぐさま私に向かい合って言った。「みお。もしダニーロをここに呼んでしまった後にロックダウンになったら、ダニーロはスイスの職場に戻れなくて、職を失ってしまう可能性もある。あなたもロックダウンになる前にチューリッヒに戻った方がいい」と言った。「航空券をチェックしたら?」
今考えると、夫婦で口裏を合わせて小芝居をしたのか、それは疑心暗鬼になりすぎか、真相はわからないが、この時私は、結婚プロジェクトがコロナという理由で強制的にストップした事実に心底ホッとしていた。
こんな間違った気持ちのまま結婚しなくて済む。一旦保留。望んでいた形がコロナという大義名分で実現した。安堵というのはこういうことかと思った。気持ちが軽くなった。自分でもわかるくらいに笑顔が増えた気がする。テレビを見ながら鼻歌を歌っている自分に気付いた。しかし、そんな私の心を見透かされているようで、ダニーロの実家にいることは気まずかった。
結局、ダニーロの実家には10日間お世話になった。オリーブの収穫を手伝ったり、皿洗いを担当したりもしたけれど、気分がすぐれなくて部屋にこもって寝ていた日もあった。私の不安定な心模様にお母さんはかなり呆れているようで、結婚は無理してするものじゃないとか、ダニーロの仕事はあんな風でほとんど家にいないし、子供もあなた一人で育てるようになるわよとか、結婚を考え直させるようなことを何度も言ってきた。結婚前からそんなに不安なんじゃ結婚なんか無理だと言わんばかりだった。当然のことだ。10日もいさせてもらえただけでありがたい。
それでも最後の日、10日間ありがとうとお礼を言うとお母さんはもう涙ぐんでいた。お母さんは涙もろくて、情深い人だ。空港で食べなさいと、プロシュートとチーズの手作りのパニーニを持たせてくれて、空港のチェックインカウンターまで来てくれた。もしかしたらこれが本当の最後になるかもしれないと思い泣き出した私に、最後は「もういいから行きなさい」と促された。お母さんの目はもう濡れていなかった。
アモッ!!!
チューリッヒ空港に到着し、電車乗り場を探していたら、ふざけたいつものダニーロの満面の笑顔が私に抱き付いてきた。ダニーロは私をアモと呼ぶ。
この人の、事実と一貫していない態度にいつも救われてきた。今回のことで、もう決定的にダニーロとはダメになったと思っていた。ダニーロはまだ私をアモと呼ぶし、こうして空港までサプライズで迎えに来て私を驚かせている。寂しさとやり切れない思いが溢れて、ダニーロに抱き付いて泣いてしまった。一体なんという茶番だろうか。犬も食わない。
とりあえず、試合は中断。これからのことは後から考えよう。そう思いながら、私はダニーロと空港のフードコートで大きなまずいピザを食べた。
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