無実の初恋 3
J.GARDEN56にて発行の新刊「無実の初恋 眼鏡職人アンリ、魔術を知る」の本文です。
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耐久性は手入れ次第
道の向こうが真っ暗だ。
ここは、あのおかしな世界。
半端な「術」が施された鏡のせいでアンリが巻き込まれた、地上だけど別の世界。アンリ以外誰もいない街。
もしここが本物のルテティアなら、どんなに暗い時間でもうるさいはずだ。飲んで怒鳴り散らす酒場の迷惑客。市場に野菜を卸す農夫の荷車。夜遊び帰りの貴族の馬車――夜中だって彼らは入れ替わり立ち代わり騒音をまき散らす。
だからここは夜のルテティアなんかじゃない。ただ暗くて、冷たくて、恐ろしい場所。
あの時、アンリの手を掴んで本物のルテティアに戻してくれたのはジャンだった。
不思議と気持ちが凪いでいた。暗い足元を見て、真横の建物の壁らしきものを眺めてから目線を上げると、ジャンの見開かれた瞳とぶつかった。
暗闇の中にジャンが立っている。
アンリは口を開き、なんらかの言葉を発した。なんと言ったのか、自分の声が聞こえない。
ジャンの顔は驚きの表情のままだった。
ああ、せめてここにカフェオレがあれば良かったのに。そうすれば彼はカップを覗き込んでくれる。
アンリの方から目を逸らした。意味もなく自分の爪先を見る。再び顔を上げると、その先はすべて闇だった。もうアンリは元の世界には戻れない。
*
「若!」
ハッと目を開けると、作業台に突っ伏していた。仕事中にうたた寝してしまったらしい。パトリックに揺り起こされて現実に引き戻される。
「大丈夫ですかい? 顔色悪いでさあ」
額も首もぐっしょりと汗をかいていた。嫌な夢を見ていた。
「悪い、寝ちゃってた……」
「寝不足なんでしょう。また遅くまで仕事してたんじゃないですかい?」
「いやー、最近ちょっとサボってたからさ。仕事溜まってて」
誤魔化し方が適当過ぎた。パトリックが子供を諭す時のような溜息を吐く。
「今日の行商、代わりに行きやしょうか? それか、フレッドあたりにでも」
「大丈夫だって」
今日は五番街のコーヒーハウスで眼鏡を売る。
人の集まる場所へ出向いて眼鏡を手売りするのも、ラコルデールの大事な収入源だ。注文品は高額だが、代金を踏み倒されることもあり、それだけを宛てにするには不安定なのだ。
「うわ、もう開店時間だ」
用意しておいた鞄を掴んで、大急ぎで五番街へ駆けた。
店先にはカップを象った看板。
漂ってくる香りに釣られて、今日も続々と男たちがコーヒーハウスに吸い込まれていく。
アンリもその流れに乗って木製の扉を潜った。
コーヒーは好きだ。特にカフェオレが。流しのコーヒー売りから買うのも悪くないが、コーヒーハウスで座って飲むカフェオレに憧れていた時期がある。
「やあ、ラコルデールさん。いらっしゃい」
「こんにちはマスター。今日はよろしく」
「私の眼鏡もあとで見ていただきたいですが、まずは何かお飲みになりますか?」
店で商売させてもらう時には注文も忘れてはいけない。もちつもたれつ、というやつだ。
「とりあえず、えーっと……砂糖入りを一杯。あんまり熱くないのね」
「おや、珍しい。カフェオレじゃないんですね」
「今日はコーヒーの気分なんだよ」
すでに席の大半は埋まっていた。
コーヒーハウスはどこも大人気で、記者、学生、商人に投資家、ちょっと過激な活動家まで。議論好きたちが新聞片手に喧々囂々。
よく見知った顔がテーブルの中央に陣取っていた。
短く刈り込んだ頭髪に、周囲の男と比べても一回り大きな身体。いかめしく近寄りがたい雰囲気を纏っているが、アンリは気にせず彼の横にコーヒーカップを置いた。
「シャブリエさん、久しぶり。最近どう?」
「おお、ラコルデールじゃねえか。めっきり見ないから倒産したかと思ってたぜ」
彼はエドガール・シャブリエ、印刷屋の二代目だ。編集者でもあり、この店にも彼の雑誌が置かれている。
「おかげさまで忙しかったんだよ」
「最近すっげえ評判だもんな。どんな魔法使ったんだよ、羨ましい」
シャブリエはそう言ってアンリの背を二回、バシバシと叩いた。アンリは手荒い称賛が終わるのを確認してからコーヒーに口を付ける。
「なあ、なんかネタないか? できれば貴族の」
「またゴシップ? ないわけじゃないけど、タダじゃあね」
「広告なら安くしとくぜ」
「言ったな。取り消しはなしだ」
交渉成立。そろそろ新しい広告を出したいと思っていたところだ。
ちなみに、売り渡すのは顧客の情報ではない。
顧客のお嬢さんが、友人の友人から聞いたという噂話だ。なんとそのお嬢さんの友人の友人は、街を歩いている時に偶然かの有名なサンジェルマン公爵夫人とすれ違い、彼女は変装した王太子と腕を組んでいたというのだから驚きだ。これだけ馬鹿馬鹿しければ、彼が定期的に撒いているビラに載せる価値があるだろう。
雑誌の方は真面目なのだが、ビラには嘘八百しか書かないと決めているらしい。だからこのくらい滅茶苦茶な話がちょうどいいのだ。
「ついでに客を紹介してくれない? 今日は誰か記者はいないの?」
「そうだなあ……」
物書きの知り合いは多いほどいい。物書きの知り合いは、だいたい物書きか読書家だ。つまり、アンリの客に成り得る。
「レニー!」
シャブリエは入口の横、壁際の金髪の男に向かって声を張り上げた。
男は小さなスタンドテーブルを陣取って、書き物をしていた。この喧騒の中でよく書き物などできるものだ。
「おい、レニー! レオナー! レオンハルト!」
ようやく男が顔を上げた。シャブリエがこっちに来いと手を振ると、ゆっくりと紙を揃えて荷物をまとめ、優雅にコーヒーカップを持ってこちらへ歩いて来た。
「なんだ。有益な話でなければ怒る。今ちょうど美文が生まれていたのに」
「面白いやつを紹介してやる。こいつはアンリ。ラコルデール眼鏡工房の跡取りだ。もうすでに経営を引き受けて、ガンガン商売を広げてる」
レニーとかレオナーとか呼ばれた男は、身なりのいい美丈夫だった。
透けるような金髪に白い肌、それに公ラヴァンドゥ語の発音に訛りがある。名前からしても外国人だ。アエスティか、スイーオネスか、北の方だろう。
「そんで、こっちがレオンハルト。なんでも書くが、気が向かないと書いてくれない困った記者だ」
「はじめまして。アンリといいます」
「レオンハルトだ。広告を出す時は必ず私に相談を。私はとてもいい文章を書く」
レオンハルトと握手を交わしながら、アンリはシャブリエに視線を送った。目が合うと強面が軽やかなウィンクをする。なるほど。もちつもたれつ、ということだ。
「ちょうどシャブリエさんに広告を依頼するところだったんです。奇遇ですね」
「最高だ。エドガー、よくやった。私のためにまた仕事を運んで来た」
レオンハルトは大袈裟な仕草で腕を広げ、隣に立つシャブリエの頭を抱え込んだ。そして無精ひげの生えた顎先にキスを贈る。
親密なキスだった。挨拶がわりと言うには熱烈で、そしてあまりに日常的だった。
「お褒めにあずかり光栄だよ」
シャブリエの方もレオンハルトのこめかみにキスを返した。
なんだ。客の紹介ではなく、恋人を見せびらかしたかっただけではないか。
「仕事の話をしてもいい?」
いちゃつくヤツは無視するに限る。今のアンリにとっては目に毒だ。こちらは苦い失恋をしばかりだというのに。
「広告の草案か?」
「そのためにも商品を見てもらえますか? 今日は眼鏡を売りに来たんですよ」
アンリはテーブルの上で革鞄を広げた。中にはびっしりとフレームが並んでいる。
「今日持って来たのは手に取りやすい価格帯の読書用ですけど、注文ならどんなもので受け付けています。例えばこれ。うちで一番人気の金属カメオ装飾です」
「ああ、それの噂は聞いている。魔術師のコンスタンティンが流行の火付け役だと」
「……光栄です」
幅広の金属のつるに浮彫を施した意匠は、ジャンの提案だった。ジャンが選んで、アンリの眼鏡を作りたいと言って……アンリ自身が彫金を仕上げ、その眼鏡は今も腰のケースに入っている。
その後、同じような物が欲しいという注文に応えているうちに、ずいぶんと知れ渡るようになっていた。
「他にもいろんなご提案ができますよ。眼鏡の新調のご予定はありますか?」
「検討したい。近く、うちへ来てもらおう。その時に草案も作ろう」
「明日でも、今夜でも、喜んで。ご住所はどちらですか?」
「北十区、コンコルベール通りだ」
聞き覚えのある所在に、アンリはまたシャブリエの顔を見た。
いかつい顔が再びウィンクした。先月会った時、新しく部屋を借りて引っ越したと言っていたが、このことか。
「あんまりふっかけないでくれよ。こいつにも家賃を払わせてる」
「工房はお客様の要望に全力で応えるだけだよ。せっかくの美人に、豪華な眼鏡を持たせてあげたいと思うだろ?」
シャブリエは一瞬嫌そうな顔をしたが、反論はしなかった。恋人に見栄を張りたい男は最高のお客だ。なるべく高級な品を勧めよう。
テーブルに広げた鞄はそのまま周囲への見本になった。
それぞれ議論を――半ば口喧嘩に近いものばかり――を繰り広げていた男たちが、ちょっと見せてくれと近づいて来る。
ちょうど眼鏡が壊れたという学生は一番安いフレームを選んだ。最近細かい文字が見えないという商人は、なるべく軽いものが欲しいと言った。中にはレオンハルトのように注文の商談に発展する場合も。
「繁盛しているようですね」
ひとしきり客の相手が落ち着いたところで、マスターがカウンターから出てきた。
「相変わらずここも人が多いね」
「ははっ、コーヒーさまさまですよ」
コーヒーを飲むと頭が冴える。正直アンリはあまりそう感じたことがないが、頭を使う仕事人たちには効果があるのだろう。実際にこうしてみんな毎日コーヒーを飲みまくっている。
「しかし、また豆の値が上がるかもしれないんで……値上げはしたくないんですが」
「うちも。鉄鉱石の相場が怪しいって聞いて、参ってんだ」
「どこも大変ですな」
マスターの眼鏡の歪みを調整して、アンリはすっかり冷たくなった砂糖入りコーヒーの残りを啜った。
以前ここで商売をした時よりよく売れた。ラコルデールの評判を聞いたと言ってくれる人が多かった。
評判が上がったのは、コンスタンティン家との取引のおかげだ。
ジャンはどこに行っても人気で、どこでも噂の中心にいる。
学生たちは彼によく懐いていて、同じ眼鏡を使いたがった。アエスティ王室サロン帰りという肩書きは社交界の話題で、彼のことを知りたい貴婦人たちがお喋りついでに新しいグラスを注文した。
ただいつものように眼鏡を売っているだけなのに、ジャンの影がついて回っているみたいだ。
「アンリ……?」
だから一瞬、幻聴かと思った。
何か考えることもできず、アンリはぼんやりと振り返った。
ジャンはいつもの微笑をわずかに揺らした。
同じ街で暮らしていれば、どこかでばったり会うこともある。しかし、まだあれから五日しか経っていない。
ぎゅっと胸が痛み、アンリはそのこと自体に衝撃を受けた。馬鹿みたいに動揺している。愛想笑いもできず、挨拶すら返せず、ただ呆然と立ち尽くす自分を、心の片隅の冷静な自分が驚いて見ている。
何をしているのか。なんて滑稽なことを。
勝手に舞い上がって、勝手に気まずくなって、勝手に傷ついて、ジャンを困らせている。自分がこんなに馬鹿だと初めて知った。
「ここでも仕事してたんだね」
「あ、はい……」
「なるほど。コーヒーハウスは記者や学者が多いから」
アンリは曖昧に頷いて、商品鞄を畳んだ。体が勝手に逃げようとしている。
「あの、すいません」
挨拶でもなんでもない、無意味な言葉をつぶやきながらジャンの脇をすり抜けた。