無実の初恋 1
J.GARDEN56にて発行の新刊「無実の初恋 眼鏡職人アンリ、魔術を知る」の本文です。
なるべくいっぱい載せます。
レンズよりも前のこと
雨が降っても屋根はない。
地面が凍っても床はない。
腹が減ってもパンはなくて、どんなに寒くても上着は薄くなっていくばかり。古着屋からくすねた年代もののコートにくるまって、アンリは今夜も凍死しませんようにと祈るのが悔しかった。
祈るなんて。
毎日祈れば神に声が届くなんて、信じたことはない。きっといつか、凍えて死ぬか、飢えて死ぬ。分かっているのに心の奥底で、どうか神様お願いしますと祈ってしまう自分がいる。
アンリは家なき子として二度目の冬を耐えていた。
このところ「収穫」が少ない。
どこも不況というやつで、店に売り物が入って来ないとか、税が重くて農民が逃げ出したとか、そんな話ばかりだ。
大金持ちの王様や貴族は大きなお屋敷の中にいて、街にはなかなか出てこない。道を行くのはアンリより少しマシなだけの貧乏人ばかりだ。浮浪児まで回ってくる食べ物はほとんどない。
ないから盗る。それでもいいが、アンリは危ない橋はなるべく渡らないようにしている。ルテティアの住人たちもマヌケじゃあない。バレずにやるのは大変だ。毎日の食事を盗みでまかなうのは難しいし、捕まったら鞭打ち刑とか、腕を切り落とされる可能性もある。よほど上手くやれる時以外には選びたくない手段だ。
じゃあ家なき子たちはどうやってゴハンを食べてるの?
もらうのだ。慈悲深い誰かから。気まぐれなクソ野郎から。もしくは、自分達たちと同じくらい哀れで愚かなただの人から。
「また来たのかい」
食堂の裏に、無愛想でお人よしな女がいる。厨房で働いているらしく、彼女は今日もせわしなく裏口を出入りしていた。アンリが顔を出すと、女は元からのしかめっ面を左方向に歪めた。
「ちょっとでいいから……」
おずおずと両手を差し出すと、女はわざとらしい溜息をつく。
料理をすると、野菜の皮やへた、外側の葉っぱなんかがゴミとして出る。どうせ捨てるなら自分にくれないかと頼んだら、嫌そうな顔をしながらも分けてくれた。それからは週に二度ほど来ている。
女はきっと優しいのだろう。アンリを追い払わず、自分が主人に叱られない範囲で施しをしてくれるのだ。
「こんなもんでも食べてりゃ生きていけるもんなんだね」
ただ、あまり賢くはなかった。アンリが野菜くずを食べて生き延びていると思っている。
さすがにこれは食べない。食べられそうな部分は少し食べるが、それよりいい使い方があるからもらっているのだ。
「うん、ありがとう」
こういう時、あまり溌剌と礼を言ってはいけない。もごもごしてるくらいがちょうどいい。今日はいつもより量が多くて、アンリは思わず口の端を持ち上げる。
「ちょっとお待ちな」
アンリを呼び止めた女は、なぜか食堂の建屋に入っていく。中にまだゴミがあるのだろうか。もらえるなら持てるだけもらうぞ。
「ほら、これ持ってさっさと失せな」
戻ってきた女は、大股で近づいてアンリの上着のポケットに手を突っ込んだ。
「え、え?」
「まったく、こんなゴミしか食うものがないなんて哀れなもんだ」
慌ててポケットの中を確認すると、丸いものがひとつ。
まだ皮を剥いてない芋だった。
「でもおあいにく様。あたしがやれるのはゴミだけだよ。ほら、さっさと帰りな」
顔を上げると、女は相変わらずしかめっ面をしていた。これ以外の顔はできないとでも言うように。
追い払われるままアンリは食堂の裏を離れる。
今日はツイてる。ここで普通の食べ物をもらったのは初めてだ。また来よう。でも明日は来てはダメだ。ほどほどに間を空けて、女に心配されるくらいにした方がいい。そういうことを、アンリはこの二年ですっかり覚えていた。
野菜くずを布で包んで抱える。
元はハンカチかエプロンだったらしい、白茶けたそれは洗濯屋のカゴからこっそり抜いた。その時点でハンカチかエプロンかも分からなかったのだから、洗ったところでどうせ使えなかったに違いない。
アンリはまた次の場所へ向かった。街の中央市場だ。
「お。今日は大量だな」
市場には毎朝無数の野菜が運び込まれ、街中の商店に仕入れられ、消えていく。市場から商店に移動する時に、邪魔な部分がどんどん捨てられるのだ。腐りかけたトマトとか、キャベツの外葉とか、カブの葉っぱとか、そういったものが。
放っておけば掃除人が片付けるが、アンリはそれをもらう。誰にも咎められず拾い物ができる数少ない場所だ。
当然似たようなことを考える人間は多くて、食べられそうな箇所は市場の関係者がさっさと懐に入れている。その次に大人の浮浪者が、人参の割れたのとかを拾っている。
もう何もない。みんながそう思う時間まで待つのが大事だ。
「やった。キャベツいっぱいあるじゃん」
ヘロヘロに萎れたキャベツの葉を拾う。アンリの手のひらより小さなかけらも残さずかき集めると、布に包み切れないほどになった。
アンリがたっぷりの収穫物を抱えて立ち上がった時、目の前に金色のボタンが立ちはだかった。
人だ。アンリより背の高い人。反射的に後退り、逃げ道を探す。
「それ、食べるのかい?」
拳も蹴りも繰り出されることはなく、穏やかな高い声で質問が投げかけられた。
キラキラしたボタンから目を上げると、思ったより低い位置に顔がある。アンリよりはずっと背が高いが、大人ではなかった。
眼鏡をかけた裕福そうな少年がこちらを見下ろしていた。
貴族ではない。貴族の子供がこんな場所にいるはずがないからだ。となると、小ブルジョワか。第三身分だが金を持っている家の子だ。
「なんだよ、別に悪いことしてねーだろ。ゴミ拾っただけだ」
短い腕で必死に包みを抱え直す。せっかくの大量収穫を奪われるわけにはいかなかった。
「俺、ケンカ強いからな。チビだからってナメてるとマジで殴るからな」
「ちがう、ちがうよ。ボクはそれが欲しいわけじゃない。どうするのか聞きたいだけなんだ。ほとんど食べられなさそうだけど、何に使うの? 実験?」
少年は首を傾げてアンリの答えを待っていた。
彼が野菜くずを欲しがっていないのは確かだろう。家に帰ればシチューが食べられるような身なりだ。ゴミを横取りする理由はない。腹いせに殴りたいならもうとっくに殴られている。
アンリはそれでもしばらく少年を睨んでいたが、彼がじっと首を傾げたままでいるので、こちらが根負けした。
「……ウサギ育ててるおっちゃんにやるんだ。そしたら、駄賃がもらえるから」
「なるほど。ウサギの餌にするのか」
答えを聞いた少年はぱっと表情を明るくする。ふわふわの黒髪が揺れて、眼鏡の奥の薄い色の瞳が輝いて見えた。
「賢いね。元手がかからないし、それだけあればウサギもよく太る。そのウサギを育てている人は、肉を売ってるのかな?」
「……そうだよ」
「ありがとう。ああ、すっきりした。野菜くずを拾ってる人を見て、何をしてるのか気になって仕方がなかったんだ」
なんだか力が抜けた。本当にただ野菜くずの行き先を知りたかっただけのようだ。
ニコニコしている少年に向かって、アンリは片手を差し出した。
「あんたはなんかくれないの?」
今さらかわい子ぶって慈悲を乞うのは難しい。アンリはやけくそで憎たらしい物乞いをしてやった。
「食べ物でも、金でもいい。きれいなハンカチでもいいよ。なんか俺にくれないの?」
「そうだね。教えてもらったお礼をしなきゃ」
少年が上着に手を入れる。
アンリは素早く周囲に目をやった。横取りする大人がいないか、稼ぎの現場を誰かに見られていないか気になったからだ。たまに別の浮浪児集団から強奪されることがある。
「五スーでどうだい?」
差し出された銅貨をひったくるように受け取り、首から提げた小さな袋に入れた。これがアンリの財布だ。物乞いなどで手に入れた金を入れている。
「ありがとう。有意義な時間だった」
アンリの態度にも気を悪くした様子を見せず、少年はにこやかに手を振って去って行った。
「変なやつ……」
しかし思わぬ収入だ。今日はちゃんとパンが買える。それも一つじゃなく、大きなものを二つくらいは買える。それだけあれば仲間たちと取り合いにならなくて済む。
アンリは足取り軽く、いつもの場所へと駆けて行った。
「おっちゃーん、野菜持って来たぞー」
「おお、坊主。いつもありがとな」
おじさんは町外れの小さな家に住んでいる。その屋根裏でウサギを何十匹も飼っているのだ。
ウサギたちはいつも居心地よさそうで羨ましい。屋根が低いことなんか小さなウサギには関係ないし、そもそも屋根があるって贅沢だ。天窓から太陽の光も入るし、こうして毎日たくさんのご飯がもらえる。
「ほーら、人参あるぞ。今日はヘタのとこいっぱいもらえたからな」
アンリは一匹のまだら模様を抱き上げた。生まれつき毛皮を着ているから、いつだってウサギはあたたかい。萎びた野菜を食わせてやりながら、外気で冷えた体を温めた。
駄賃をもらえるだけじゃない。こうしてウサギを撫でて暖を取れるのも、この仕事のいいところだった。
あたたかくて、フワフワで柔らかい。大人しく餌を食むウサギを抱いていると幸福を感じる。夏場は糞の臭いがきついから嫌だけれど。
「そうだ。おまけにこれもやるよ。ウサギじゃなくて、おっちゃんが食べな」
ポケットから取り出したのは、皮付きの芋だ。
「なんだ、自分で食べないのか?」
「俺、鍋も火も持ってないからさ」
芋は生のままじゃ食べられない。
ウサギ屋敷にも人間用の台所はある。おじさんにはちゃんと家があって、ウサギ肉を売った金で買った椅子やカーテンまで、ちゃんと持っているのだ。
アンリは駄賃をもらって帰るつもりだったが、おじさんがそれを引き止めた。
「ちょっと待ってな。蒸してやるから」
おじさんはアンリを竈門の前に連れて来た。小さな鍋で湯が沸かされ、あの芋が皮付きのまま放り込まれる。
「……いいの?」
「坊主の芋だろ。自分で食いな」
アンリはじっと鍋を見つめた。
黒い鉄鍋の中からゴロゴロと湯が沸き立つ音が響いている。芋にすっかり火が通るまでの時間、アンリはその音にじっと耳をすませた。獣の臭いに混じって、芋が熱くなって発するあの匂いが漂ってくる。あの、白くてふかふかしていて、噛み締めた時の甘みと、鼻に抜ける青臭さまで思い浮かべられた。ごくりと喉が鳴る。
いつぶりだろう。芋を食べるのは。
「よーし、いい感じだ」
おじさんはアチチ、アチチと大袈裟に騒ぎながら皮を剥いた。
「ほら、食いな」
もくもくと湯気の立つ白い芋。アンリはそれを信じられないもののように見つめた。
「ああ、まだ熱いな、気をつけて」
おじさんが言い終える前にアンリは芋に飛びついた。
「持って帰っていい? 冷ましてから食べるから!」
芋を包む紙を持たせてくれた。紙の上から、あのハンカチかエプロンか分からない布で覆って芋を抱え、アンリは大急ぎでねぐらに戻る。
溜まり場の裏路地には見知った子供達がうずくまっていた。今の季節、することのない浮浪児たちは日の当たる場所で固まって暖を取っている。
「クリス」
猫の子のように身を寄せ合う孤児に、アンリは努めて低く冷たい声で話しかけた。
「おい、クリス。ちょっと来い」
微睡んでいた少年が目を瞬かせてアンリを見上げた。クリストフという名で、みんなクリスと呼ぶ。
「なあに、アンリ」
「いいから来いって」
眠そうなクリストフを無理やり引っ張って表通りに連れ出した。
秘密を守るのに路地裏を選ぶ奴はバカだ。コソコソしているところを見つかった方が痛い目を見る。いっそ堂々と日の当たる場所ですれば、かえって人目に付きづらく、言い訳の種類も増やせるのだ。
だからアンリはこっそり芋を食うのに、行商や屋台の多い大通り沿いを選んだ。石積みの建物がびっしりと並ぶ中、日当たりのいい空いた場所に座り込む。
「バレないうちに食うぞ」
包みを開いて芋を取り出すと、予想通りクリストフはぽかんと口を開けた。
「どうしたの、それ?」
「もらったんだよ。早く食え、半分な」
パンを分けないと他の仲間に疑われるが、この芋は臨時収入だ。腹の中に入れてしまえば誰からも指摘されない。
運んできた芋は少し汚れていたけど、アンリたちにはピカピカに見えた。
「早く食えって。見つかったらボコられるぞ」
ゆっくり味わいたいところだが仕方ない。アンリは大きく口を開けてかぶりついた。半分に割った芋に半円の歯形がくっきりとできる。
クリストフも芋を齧った。
「おいしい……まだあったかい」
バターもチーズも塩もない、ただ蒸しただけの芋を、二人はおいしいおいしいと夢中で食べた。
通りを行き交う人は多いが、誰も二人を見もしない。物乞いをされるのが嫌だから目を合わせないのだ。ここにいるけれど、いないように扱われる。今はそれが都合がいい。
「あ、あいつ。さっきの」
足早に通り過ぎて行く雑沓の中に、記憶に新しい顔を見つけた。
眼鏡をかけた、金ボタンの上着の少年。今度は父親らしき人物と連れ立って歩いている。
「誰?」
「あれ。金持ちそうな親子。ほら、おっさんの方がデカい包み持ってる」
父親は両手いっぱいに重そうな荷物を抱えていた。箱か、本だろうか。眼鏡の息子の方はそのあとをついて歩きながら、なにやらずっと父親に喋りかけている。
「知り合いなの?」
「いや、さっきちょっと会っただけ。なんで野菜拾ってるのか聞かれて、答えたら五スーくれた」
「五スーも⁉」
「バカっ、デカい声出すな」
親子はこちらに気づくことなく通り過ぎて行った。父親を見上げる少年の眼鏡の、硝子レンズが陽光を反射してピカリと白く光った。
「あーあ。あの眼鏡、いくらすんのかな」
眼鏡など触ったこともない。
かつて雇われていた貴族の屋敷にはあったかもしれないが、近くで見る機会などなかった。
「五スーじゃ買えないかな?」
「無理だろ」
五スーあればカフェオレが一杯飲める。でも、眼鏡を買うには、きっと十杯でも足りない。
眼鏡じゃなくてもいい。キラキラしたものを手に入れてみたい。盗むのではなく、手にしてすぐ売り払うのではなく、自分のものを持ってみたい。
「よし、腹ごしらえできたし、カルディナル広場でも行くか」
芋を包んでいた布と紙をポケットにしまって、アンリは勢いよく立ち上がる。
食べ物や生活に必要なものを探さなければならない。浮浪児も忙しいのだ。広場にはカフェや露店が多いので、何かしら手に入る。
「古着屋に毛布ってあるかな? 寒くて眠れなくて」
「毛布はかさばるからなあ。うまくパクれるように、お前も手伝えよ」
「五スーじゃ買えない?」
「安く売ってたら買ってやるよ。多分無理だろうけど」
ウサギはフワフワで温かかった。毎日ウサギと一緒に眠れれば、寒くないのに。
つづき