あれから26年。
4月も下旬。
今週末辺り、祖母の命日がやって来る。
私が14歳の時、74歳で祖母は他界した。
そこそこ病気とは縁があった人で
クモ膜下出血、C型肝炎からの肝硬変、乳がん。
あと、精神的な病が少々(未診断。孫目線での予想)
とにかく一言で祖母を表すなら
激しい人
である。
とにかく激しい人だった。
怒ったら私の頭をブロック塀に押し付けてきたし
気に入らない事があるとすぐに「しんでやる!」と体を震わせていた。
また、モラルもそんなに持ち合わせておらず
とにかくどこでも構わず 屁 をこく人
だった。
道端、電車の中、タクシーの中。
「女子高生がこっち見てクスクス笑うんだよな」
「でもの、はれもの、ところかまわず だ」
「生きてるんだもの、屁ぐらい こくべや」
⬆祖母の持論としてはこうらしい。
普通じゃ考えられない。今で言うなら確実にバイオテロ並みのことを、このおばあさんは毎日の様にやっていたのだ。
そういえば祖母の好物はさつまいもだ。
♢
私は物心ついた時から、祖母と一緒に暮らしていた。
確か叔父もいた。
その時は母と父はいなかった。いずれ別記事に書く予定だが、まぁ、そんなこんなで私は祖母と叔父の3人暮らしだった。
多分頭をブロック塀に押し付けられたのはこの頃だと思う。5歳くらいか。
ある時、昼間ふらっと母がやってきて、私は別部屋に行くよう追い出された。
その後、大声で祖母とかなりの言い合いをしていて、
それを意味もわからず聞いていた私は
やだなー、こわいなー、と稲川淳二よろしくドキドキしていたら
祖母が部屋から出てきて台所へ向かい
包丁を手に母の元へ戻って行った。
どう見ても修羅場。
これは母を刺すかもしれん。
そっと部屋を覗くと
やはり予想通り、祖母は母に向かって包丁を向けていたが
母がどちゃくそ泣いていたおかげで大事には至らなかった。
やっぱり激しい人だった。
言い合いの理由は知らん。
♢
程なくして祖母と叔父と別れ、私は母と父と住むようになり、祖母とは長期休みと土日に過ごすようになっていた。
私がもうすぐ14になる冬の寒い日に
祖母は救急車に運ばれた。
肝硬変の末期。余命もあまり長くない。同時に乳がんも見つかった。
乳がんはそこそこ進んでおり、オペは無理。
ただ「花が開いている」ので、部分的に切開はしていたようだ。
(後から母から聞いたので詳細は不明だが、乳がんの腫瘍が外に飛び出ていたと推測)
そして春。
肝硬変の末期により、肝性脳症となり
最期の辺りは会話も不成立となり
いよいよ危ないと病院に駆けつけた時には
口腔エアウェイを口にはめた祖母が下顎呼吸をしていた。
血圧は50程だった。
「かあちゃん!死んじゃやだよ!」
と叔母が必死に祖母の体を揺らす。
私やいとこ、母と叔父は、ベッドの足元で
だんだんゆっくりになっていく下顎呼吸を見つめていた。
心電図モニターが0を示した瞬間
叔母が心臓マッサージを勝手にし始めてしまい
叔母VS母 の仁義なき戦い(表現の自由)が病室で繰り広げられた。
「もしもの場合は延命しません」
そう、入院の際に祖母と母が医師に伝えていたからだ。だがそれを叔母は知らず、ただただ生きて欲しくて心臓マッサージをしてしまったのだ。
延命しません=心臓マッサージは拒否します
この公式であの世に旅立つはずだった祖母は
叔母の不意打ちの心臓マッサージにより
この後11分生き延び、そして疲れたような顔をして他界したのであった。
♢
あれから26年が経つ。
私は祖母が他界した病院でいま働いている。
少しでも供養になればいい、と。それだけの気持ちで働いている。
我が家は祖母が他界してから、それぞれバラバラに別れた。
叔父・叔母・いとこの3人は音信不通。生死も定かではない。
もともと折り合いが悪かった母とも
もう20年連絡を取っていない。生存は確認できている。(便利なツールがありますよね。必要ないんだけど)
一家離散
この言葉がよく当てはまる。
祖母は今頃、黄泉の世界で何を思うのか―
せいぜい好物だったさつまいもでも食べ、屁をこいてのんびりしている事を願う。
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