自由への教育
ここのところ、
自由への教育、、、
自由への教育、
、、、自由への教育、
という感じで、
頭に浮かんできて、
おりました。
自由への教育
は、
字の如く子どもの未来に焦点を合わせています。
その子がいずれ大人になった時、
周囲の思い、社会の趨勢、既成概念、
諸々に捉われずに、
自分の内側の思いに気づいて、
その思いのもと行動にできる、
ように、
との思いから、
先生方は時間と環境を作っている、
と私は考えています。
ルドルフ・シュタイナー博士は、
著書「一般人間学」の中でこんな風に言っています。
「、、もし皆さんが自分の行為ばかりみて、「自分が何であるのか」を見つめる事をしなかったならば、皆さんは良い教育者にも良い授業者にもなれないからであります。私たちが人智学に基づく精神科学を持っている理由は、人間は自分の行うことによってのみこの世の中での仕事を果たすものではなく、主として自分の存在そのものによってそれを為すのだという事実の重みを、洞察するためなのです。
、、、その教師が自分の生活の全ての瞬間に、どのような方向に自分の理念を向けて生きているかにかかっております。」
自由への教育、
と少し話がずれてしまうのですが、
子どもは小さければ小さいほど、
個性はあるけれど、固定された概念がありません。
例えば、
白くて、湯気が出て、ほかほかして、キラキラした粒、
これは、坪倉優介さんのご飯を見た時そう思ったそうです。
坪倉さんは大学時代に事故で記憶喪失になり、
ほとんど全ての概念を忘れてしまった方です。
お母さんのことも覚えておらず、お母さんという概念も分からない、
「ご飯」や「食べる」はもちろん、「車」や「自転車」「金魚」などなど、
周囲のもの全てが彼にとっては初めて出会うもので、
自転車は二つの丸いものがクルクルまわるっているもの、と感じたそうです。
ただ人の表情などからその人の思いを感じるとることは敏感だったそうです。
周囲は、坪倉さんが助かったことの喜びは当然大きかったものの、
記憶喪失の息子を助けるお母さんや周囲の方の戸惑いも、
大きかったと書かれていました。
彼の著書を読んで、
彼は体も頭も大人のまま、赤ちゃんの心に戻ったようだったのでは、
と、思いました。
そして、
子ども達も世界をこんな風に見ているのでは、と思いました。
ただ子ども達はその気持ちを彼のように言葉に表す事はできません。
子ども達に概念を与えるのは、
周りにいる私たち。
私たちが物事をどう捉えて、どう接するのか、
幸せとは?
その子の周囲にいる大人が感じる幸せが、
その子の幸せの大きなヒントになる、
事は多いと思います。
多い、という表現を選んだのは、
今保育士をしていて感じるのは、
0歳児の赤ちゃんなのに大人のような表情をする子や、
3歳で自分の思いや考えを言葉にできる子に出会ったからなのです。
周囲のいうことをただ鵜呑みせず、
おかしいな?を言葉にできる子がいる、
心強いと感じる今日この頃、笑。
それでも大半の幼児は周囲の大人の模倣をします。
模倣は大人の心情を無意識に受け取れる幼児期の特徴で、
子どもの大人への信頼感を示しています。
子どもは大人を全肯定して受け入れてくれています。
泣いたりぐずったり聞き分けがよくない時、
体の不快さを訴えている時もあれば、
周囲にいる大人の気持ちを代弁している事も多々あると、
私は思います。
子どもが眩しいです。