子供時代のトラウマと心療内科 その2
連れ戻された母にとっての結婚生活は針のむしろだったと思う。
割とエリート一族だった父方にイヤミを言われない為に、私の進路は重要だった。
周りに褒められて当たり前。できて当たり前。
出来なければ存在否定されるレベルで責められる。小学生時代、私は本気で母を継母だと思っていた。
だって、妹には優しかったし、妹は母にそっくりで周りにも愛されてのびのびしていた。
次々、塾や習い事を見つけてきては行かされる。飽き性の私は直ぐに行かなくなる。の繰り返し。
高校は、友達の行く女子高へ行きたかった。だけど母は、レベルが低いから、教師と一緒になって進学校を勧めた。
自信がなかった。自分の学力も正直把握出来ていなかったし、バカだグズだブスだと言われてきた自分に自信の持てるものは何も無かったから。
母の気に入らないことをすれば口は効いて貰えない。妹としか話さない。まるで、存在しないかのように扱われる。友人の家に泊まったことなんてない。泊まりに来てもらったことも。門限は夕方6時。遊びに行けば下手すると4時には街を出なければ間に合わない。
それでも言われるとおりの高校へ行った。
1日も早く家を出ることだけを考えてた。
でも、今の自分に生活能力はない。高校を出るまで。それまでの辛抱。
大学を薦める母の言うことを初めて聞かなかった。高卒で就職。お金を貯めて早く家を出る。
だけど、いざ働き始めれば、母も少し変わった。普通の母娘のように話したり出掛けたりするようになっていった。
母自身の肩の荷が降りてきたのか、その頃、父が単身赴任して母に彼氏が出来てたからなのか・・・私自身の母への憎しみも消えていった。
結婚して子供を産んで
改めて、子供を捨てて家を出た母を理解できないと思ったし、私にとって子供たちは
生まれて初めてダメな私を丸ごと受け入れてくれる。
息子に出会って私は喜怒哀楽を得た。
歳を重ねる事に、
私を捨てた母のことは理解できないけれど、
味方も知り合いもいない土地で、父とも上手くいかず、中卒というコンプレックスを絶対に見せないで気を張った毎日の中の子育てのストレスはわかる気がした。
19で結婚して子供が子供を産んで、
愛せないといいながらも、しっかり栄養を取らせてくれてたし、まともに洗濯したものを着せて貰った。病気をすれば病院へ連れてってくれたし。
するべき事はしてくれていた。
私の中では、虐待とは思わないまま。
そして、私が結婚してからも車の免許のない母は、原チャリで遠い道のり運転し、色んな差し入れを持って来てくれていた。
恨みも何も一切ない。
でも、心療内科の医師が言うには、
それでも、私の心の奥底に、その時の傷は消えることなく私の人格の元になってると言った。