人は美しくなると言葉が消える
思考をできるだけ少なくする時間を持ちたくて、最近は自然の中によく行くようにしている。
私の住んでいる町は、それなりに都会でそれなりに自然がある。
10分もあるけば駅で、逆側に10分も歩けば自然溢れる公園がある。
その公園に行って、緑を眺めたり水の流れる音を聞いたり、鳥のさえずりを聞いたりするのだ。
先日も散歩に行ってふと顔を上げた。
そのまましばらく空を見ていた。
見ていたというよりも目に入るものをぼーっと眺めていた。
そのときは思考もなく言葉もなくただ眺めていた。
ふと意識が動いて、
「空が青い」
と思った。
その瞬間、感覚が微かにきゅっと縮こまった感じがした。
狭まったような檻か何かにはいったような。
あえて言葉にするなら「不自由さ」を感じたのだった。
ただ空を見上げていた時は自由だった。
無限の自由さと安心感のようなものがあった。
昔、「花を見て美しいと思ったときに心は汚れる」という言葉を聞いたことがある。
その時はその意味が分からなかった。
いや、その後もずっと分からなかった。
花を見て、何も心が動かないよりも動くほうがいいじゃないかと。
美しいと思う心は大切ってなっているんじゃないっけ。
それの何がおかしいんだ?
でも、本当にそうなのか?
たしかに何かおかしい気もするけど、と。
言葉なしに感覚を感じること…という瞑想もさぼりさぼり長年やってきたからか、頭では、知識ではなんとなく分かるのだ。
言葉で定義しないことの大切さが。
それを分かるとは言わないのかもしれないけれども。
でも、「空が青い」と思った瞬間のあの不自由さを体感して、
「花を…」の意味がほんの少しだけ分かった気がした。
花を見て美しいと言葉で定義してしまうと、その瞬間に自分と思考や感情が一体化してしまう。
少なくとも私はあの時に一体化したんだと思う。
一体化してしまうことがそのものをありのまま観ることから遠ざけてしまう。
そこにある不自由さ。
心が動くことそのものでなく、思考や感情と一体化するから不自由になる。
それが心が汚れることなんじゃないかと思った。
また別の時に、「人は美しくなると言葉が消える」という言葉を聞いたことがある。
これは静謐さの中にいることを言っているのだろう。
今年の始め、誕生日を迎えて書いたnote
ほんの少しだけ近づけたのかもしれない。
これからも少しずつでもその世界に近づいていきたいと一年の終わりに思うのだ。