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アダージョ 第9話


「演奏に、翳りがあるね」


「藍と月」を弾き終えた俺に、凪先生が穏やかに言った。大晴はサッカーの練習で今日はいない。


「......先生、あれから俺、翠とうまく行かなくて。俺が悪いんだけど」

翠は俺と眼を合わせてくれなくなった。怒っているような顔はしていない。嫌われている様子でもない。だけど俺は苦しくて、心がそれでいっぱいになっている。



「そっか。翠は弱い子だから」



「......翠は弱くなんかない、って、今までは思っていました。演奏会だって海外でもあんなに堂々として、いつも強いなって。俺だったら出来ない。だけど、最近は、そうでもないかなって思い始めて」

先生は柔らかく微笑んで言った。


「演奏会ね。翠、痩せてるでしょう?」


「え」


「翠はね、演奏会の前になると1週間くらいお腹を壊すの。毎回、何年経ってもね。食欲も無くなって、だから太れない。夜も眠れなくて、あ、これ、翠に言わないでね。泣いちゃうときもあるの。だから演奏会が近くなると、私たち今でも一緒に寝てるの」



「え、翠、堂々としてるから、何ともないんだと思ってました」



「そんなことないよ。強い弱いも種類があるけどね、強いのは杏。あの子は嫌なことははっきり言えるけど、翠は言えないの。家のためとか、きっと家元にもいろいろ言われてるんだろうね。おじいちゃん子だから。それで、いろんなことを考えて、失敗が怖くて、いつまでも慣れない。それで身体を壊すの」

「そうなんですか」


ちっとも気づかなかった。俺は翠の何を見ていたんだろう。本当に馬鹿だな。


「人より怖がりで、お化けもずっと怖かった子なの。一度怖いテレビを見ると、何年もそれを思い出して怯え続けてる。そして、そんな自分を嫌いなの」

凪先生はそう言ってまた笑った。愛情と、心配。それに俺への気遣いが混じった顔だった。



「どうしてだろうね。昔はここまでじゃなかったんだけど、小等部の5年生くらいからかな、酷くなって......。奏真くん、翠は繊細だから、ゆっくりじゃないと、元に戻れないと思うの。だけどそれを嫌だと思うか思わないかは、奏真くんの自由だから」



「俺、嫌だなんて思いません。ただ、元に戻れないのが、すごく、辛い」


俺は膝に置いた拳を、ぎゅっと握りしめた。


「うん。ありがとうね。このことについて、罪悪感は持たないでね。奏真くんはちゃんと謝ったんだし、後は翠の問題だから。だけどもし、奏真くんがあの子にウンザリしたら、怒ったりしないでただ、離れてくれる?あの状態のあの子を今一番嫌いで、責め続けてるのは、翠自身なの」



「ウンザリしたりしません。そんなこと、あり得ない」



「うん、もしもの話。あの子ね、他の子よりずっと、成長が遅いの」


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「部長部長部長!山田先輩が!部長を呼んでます!」

部室で片付けをしていると、1年生の後輩が目前で火事でも見たかのように慌てて私を呼んだ。奏真はその容姿から校内で有名だけど、箏界でもそれなりに名が通っている。何せあの優先生の子で、箏の腕もそれなりだ。良家の子女が通うこの学校の箏曲部員であれば、興奮するのも無理はない。

部室を出ると夕暮れの中、壁に寄りかかる奏真がいた。ほのかな光に照らされた姿が相変わらず絵のようで、怯んでしまう。

「翠、部活終わった?」

「え?うん」

「一緒に帰ろ。待ってるから」

「え、だけど彼女さんは」

「俺、いま彼女いない」

部室のドアから外を覗いて、部員たちがキャーキャー言って見ている。そのうち1人が走って出て来て、眼をハートにさせて奏真に話しかけた。

「先輩!部長を待っているなら、中に入ってください」

「え?いいよここで」

「いやーん、そんなこと仰らずに!ささ、どうぞどうぞ」

「そう?」

奏真は半ば強制的に中に入らされた。これでもう片付けどころじゃなくなった。


「山田先輩ー!何か弾いてくださーい!」


女子が多い箏曲部は、黄色い声の合唱団と化してしまった。爪が無いから、と言う奏真に、ささっと後輩が合いそうな箏爪を幾つか持ってくる。

「翠、これ、いいの?」

奏真が私の顔を伺うと、部員全員の懇願するような眼も私に集まった。

「仕方ない。一曲だけね」

途端にキャーっと歓声が上がる。

「翠、一緒に弾いてよ」

奏真が首をクイっと曲げて、私を促す。その仕草でまた黄色い声が聞こえる。

「え、何を?」

「冬だし、かささぎがいい」

「じゃあ、奏真が第一箏ね」

「ん、分かった」

言うなり奏真は調弦を始めた。

鵲は百人一首を捩った冬の曲だ。 

かささぎの 渡せる橋に おく霜の
白きを見れば 夜ぞふけにける

大伴家持 伝


かささぎの渡せる橋、というのは天の河のことで、澄み切った冬の空に、霜のように白く光る冬の天の河を詠んだ一首をモチーフに作られたこの曲は、目の前に澄んだ冬の河の煌めきが現れるような美しい曲だ。奏真はこう言った自然が題材の曲を弾かせると、格段に上手い。

冬の刺さるような空気も、余計なものを含まない夜の暗がりも、シンと澄み切った香りも、星一つひとつの瞬きまでが周囲に現れて、自分が何処にいるのかさえ忘れてしまい、演奏の中に惹き込まれる。


この曲を2人で弾くとき、大抵私は第ニ箏を担当する。自分の淡い夜が奏真の世界観に染められて、意識が自然と何処かへ飛んで行ってしまい、夢の中にいるようになる。恍惚とした、って言うのかな。神様に身体が乗っ取られたような、最高の快楽。


曲が終わると泣き出す部員が続出した。それなりに聴く耳が育っているんだろう。この曲は、奏真の演奏に慣れている私でも感極まりそうになるもの。箏に熱心な人が初めてこんな至近距離で聴いたら、それはもう、ただ泣くだけじゃ済まない。きっとこの演奏が一生、心を捉えて離さないだろう。


やっぱり私、この人が好きだ。胸が、精神が、おかしくなってしまいそうだ。好きで好きで、好きなのに。


奏真はこちらを向いて笑った。

「やっぱり翠との合奏は、最高に気持ちいい」

私は下を向いて、ありがとう、と言った。



奏真と一緒に部室を出ると、さりげなく鞄を持ってくれる。

「日が落ちるのが早くなったな」

「そうだね。もう暗いね」

私たちはポツリポツリと話しながら、学校を出た。

「珍しいね奏真。帰るの誘ってくれるなんて」

私は下を向いて、奏真に話しかける。

「うん、俺さ......、翠と元に戻りたい」

途端に心臓がドキリとした。

「あれから翠、俺の眼を見ないだろ」

「え?」

自分がした悪いことを暴かれているような気分になって、冷や汗をかく。

「怒ってる訳じゃないんだろ。俺を嫌いになった?」

「違う!」

「じゃあ俺の顔を見て、話してよ」

私はこの状況から逃げ出したくなった。普通に奏真の顔を見上げればいいのに、出来ない。駅に向かう夕暮れは人もまばらで、気の合う友人でも通りすがれば何とか誤魔化して逃げたくなったけど、私たちの近くには他に人もいない。

「翠!」

奏真が急に私の顎に手を当てて、顔を上向かせた。その瞬間、奏真の眼と私の眼が合って、剥き出しの私の表情が、きっと奏真に見えてしまった。

「翠......」

奏真は驚いた顔をして、それから眉根を寄せて下を向いた。

「……怖いの。俺のこと」


歩みを止めて、私たちは不恰好に立ち尽くしている。

「違う!違うよ」

「翠の嘘はすぐ分かる。だから俺を見れなかったの」

「......そうじゃないの」

「怖くて、でも俺に謝らせたくなくて、また1人で悩んでたの。眼を見たらバレるから、だから顔を合わせなかったの」

こんなの、裸を隅から隅まで見られるようで、耐えられない。


「……違うの」

「翠、震えてる」

言われて手が震えているのに気づく。奏真に抱き締められそうになって、反射的に身を引いてしまった。また私の眼を見て、奏真は傷ついた顔をした。

違うのに。奏真を傷つけたくないのに。好きなのに。

「......嫌かもしれないけど、言わせて。本当にごめん」

「だから、私奏真に、これ以上謝って欲しくない」


震える声で何とか伝える。

「うん。だけど、翠が傷ついたのは事実だ。女の子の翠の手を、あんな風に強く振り払ったり、あんな怒りをぶつけて大声で怒鳴ったら、怖いのは当然だ」



私たちはまた歩き出した。それは重い歩みだった。

「俺、もうしないから。翠に暴力を振るうことはもちろん、怒鳴ったりしないから。絶対。約束する」


「うん。……ありがとう」


私たちはその後、ほどんど何も話さずに帰った。こんなことは初めてだった。気まずいというより、心がいっぱいで話せなかった。奏真はずっと、私を心配そうに見ていた。こんな面白くない私と、一緒にいるのは嫌だろうな。ごめんね奏真。

家の前で奏真は私の鞄を渡してくれて、「また明日」と小さな声で呟いた。そして私が門に入るまで、ずっと私を見つめていた。



以前のお話はこちら。



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みおいち@着物で日本語教師のワーママ
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